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2020.11.03

【活動報告】「Look東大・EAAデー」第1回参加記

ダイキン—東大産学協創のもとで進められてきた「Look東大」プロジェクトが、このたびEAAにやってきた。理系研究者のラボラトリーをダイキン社員が訪問して共同開発の種子を探すという趣旨で昨年来進められてきた試みが、フェーズを変えて「人文学」にも広がったのだ。EAAが北京大学とのジョイントプログラムとして始まったのは、ダイキンの寛大なるご理解と多大なるご支援があったからにほかならい。だから、この企画はわたしたちにとっても願ってもいない喜ばしいものであった。しかも、駒場の人文学を代表するに最も相応しい3名(伊達聖伸さん、國分功一郎さん、武田将明さん)が、企画の提案後すぐさま協力してくれることになり、喜びはさらに大きなものとなった。國分さんからは「ことばを通じて人と触れ合う」という統一テーマも提案してもらった。わたし自身は、企画の趣旨を次のように記した。長くなるがすべて引用しよう。

このたび、Look東大・人文系企画として、東アジア藝文書院がご協力させていただくことになり、たいへん光栄で、そしてうれしく存じます。
EAAは御社のご支援のもと、本学と北京大学とのジョイントプログラムとして、「東アジア発のリベラルアーツ」を目指した研究と教育を行っています。主に哲学や歴史学、文学などの人文系学問の研究者が集まっています。ダイキンと東大の産学協創は、産学連携の斬新なかたちを社会に向かって実践的に示す、絶好の機会だとわたしたちは思っています。この試みの目指すところは、この協創に関わる人びとが、触れ合いを通じて共に変化しながら成長し、そのことによって、世界と地球をよりよきものにするべき想像力と行動力を磨くことであると思います。そして、人と人が共に変化し成長していくことこそは、人文学がソクラテスや孔子の昔からずっと実践してきた学問のかたちそのものです。
わたしたちは、その「共に変化し成長する学問」としての人文学をダイキンの皆さまと共に楽しみたいと思います。わたしたちが用いるのは「ことば」です。そこで、今回の企画を「ことばを通じて人と触れ合う」と名づけました。オンラインコミュニケーションで、直に人と触れ合う機会は減ってしまいました。それでもわたしたちは、「ことば」を通じて、人と触れ合い、その悦びを分かちあいたい。なぜなら、それが人だからです。わたしたちは皆さんといっしょにそのための場を作っていきたいと思います。
この場は、EAAで学ぶ学生にも開かれることになっています。社会の第一線で活躍なさる皆さんと、未熟だが多感な学生との交流によって、相互に心地よい刺激が生まれることでしょう。
共に何かをするには、ちょっと汗をかかねばならないかもしれません。でも、汗をかいたあとの悦びはひとしおです。「学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや。友あり遠方より来たる、また楽しからずや」——学問を通じた友情の悦びと楽しみこそが人を成長させる。この機会を利用して、そんな体験を得たいという皆さまのご参加を心から歓迎いたします。

(ダイキン社内広報パンフからの抜粋)

この企画を始めるに当たって、わたしたちがだいじにしようと思ったのは、人文学を「共に変化し成長する」プロセスそのものであるととらえ、そのプロセスそのものを協働によって実践することだった。「変化し成長する」というのはもとより息の長いプロセスである。わたしたちの企画は毎回90分しかない。だから、わたしたちはこの短い90分を、長い人生のプロセスの中に一瞬つくられる「ポケット」として用い、変化の駆動をもたらす集団的なパフォーマンスを「ことば」によって試してみることにした。
10月26日に行われた3回シリーズの第1回は、伊達聖伸さんがファシリテーターとなり、ご自身が翻訳した戯曲フランソワ・オスト『ヴェールを被ったアンティゴネー』(伊達聖伸訳、小鳥遊書房、2019年)を題材にして、この中から抜粋した台本を参加者に朗読して演じてもらった。伊達さんはさらに工夫を凝らし、そもそもソフォクレスの悲劇からの翻案として成立した同書をヒントに、さらなるアダプテーションを施した台本も用意した。それらは、学生が日本で実際にあった事例をもとに翻案したものであり、ライシテ理念とムスリムの摩擦は、職場における出産と育児という問題に置き換えられて、日本からは一見遠いと思われる問題が実はかたちこそ違えど共通して存在していることをじゅうぶんに示すこととなった。
このイベントのポイントは言うまでもなく、「演じる」ことである。台本を渡されてそれを咀嚼し、ともかく演じてみる。うまく演じようとする努力は大切だがうまいかどうかは問題ではない。自分なりに、なり切ってみるという姿勢だけがだいじである。「演じる=play」とは、日常繰り返される為されるべきルーティーンからは逸脱した「遊び」でもあり、したがって、それは日常の中に一瞬うまれる「ポケット」となる。この「ポケット」の中で、参加者は、日ごろの自分とは異なる役回りを「演じる」ことを求められる。そのことは翻って、自らの日常に対する異なった視点を与えるだろう。30人を超える盛況の中で90分という時間はたしかにもの足りないものであったが、しかし、その一方で、「演じる」ことに興じたことを通じて、あるいは、この90分という「ポケット」の中に身を置くことを通じて、いつもとちがう何かを感じることはできただろう。それは、つまり、いつもの自分とは少し異なった視点から世界を見てみるという経験だ。そしてそれは、自分とほかの人との関係を見なおすよい機会になるはずだ。正解を求めることは、この試みの目指すところではない。たった90分で得られるような正解は、わたしたちのこの不可解な人生にはほとんどないだろう。そのようなものは、慰みにはなるかも知れないが、「共に変化し成長する」ための糧にはなりそうもない。それよりも、「演じる」ことで感じた「いつもとのちがい」のおぼろげな感覚の源を問いつづけることが、長い長いプロセスの中で変化するためのきっかけになる。『ヴェールを被ったアンティゴネー』の末尾には、「あなたの問いは何だったのかと訊かれるときが必ず来るはず」とある。だが、実は、もう問いは開かれているのだ。そして、問いこそが新しいものを到来させる鍵となる。
さて、いちおう今回のテーマ「ダイバーシティ」に関して私見を最後に述べよう。テキストは政教分離の学校現場におけるムスリムの信仰のあり方を問題提起するものであると一般には思われている。しかし、問題の核心はそれではない。愛する兄弟の死を悼むこと、愛するわが子の生を育むことは、時として学校や職場のルールに抵触する。しかし、死を悼むこと、子を産み育てることは、すぐれて社会的な行為であるはずだ。「愛」は愛し合う者同士の中だけで自足するのではなく、その周りの人びとの承認と共同において初めて表現される。それが社会の中でどこまで共有されうるのかという問題は、わたしたちが人としていかなる生を生きて行くのかという問題そのものであり、わたしたちは「ダイバーシティ」を問いながら、実は、「愛」を社会的に支えるための条件を探っているのである。愛なき社会が長く持続するとは思えない。
きっと今後予定されている2回においては、トピックもやり方も異なりこそすれ、この同じ問いが繰り返されることになるだろう。

報告:石井剛(EAA副院長)

全国各地の社員の参加を得ることができたので、Zoomもにぎやかになった。 写真はその一部。