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2021.12.13

悦びの記#1(2021年12月10日)

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 先日、「話す/離す/花す」で予告したとおり、場を共にして学ぶことの悦びをEAAがその名に掲げる「書院」の理想につなげるべく、「悦びの記」を書いていきたいと思います。今日はその初回です。

 このコラムでは、駒場という空間のそこここで出会う小さな悦びの瞬間を紹介したいと考えています。駒場の教養学部の歴史は1935年に第一高等学校が弥生キャンパスからこの地に移転してきたときに始まります。それから86年の歳月を経て、いまわたしたちは駒場に学問の悦びとそれを人と分かちあう楽しみを享受しています。わたし自身は東大出身ではないので、もとより駒場に対する愛着はあくまでも教員としてのそれでしかないのですが、ここには悦楽のしかけが奥深くまで潜んでいるのをしばしば感じることがあります。例えば、今日の写真は、知る人ぞ知る茶室、柏蔭舎。先日訪れたときにも、裏千家のサークルが活動していましたが、学生たちの自主的な運営によって、キャンパス東側の木立の中にひっそりと佇むこの慎ましい茶室は維持されています。

 

 

茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力
して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行う口実となった。
茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。(岡倉覚三『茶の本』岩波文庫版39ページ)

 

 岡倉天心のこのことばは、そっくりそのまま社会のなかの学問の位置と役割に置き換えることができると思います。マイケル・ピュエット流に言えば、茶室はpocket of orderとして、「かのようにの礼 as if ritual」が実践される場であると言い換えることができます。

 12月1日には、華東師範大学哲学系にお招きいただいて(劉梁剣さん、ありがとうございます!)、MOOCセミナーでしゃべってきたのですが、その中でもこの写真をお見せして、新しい中国哲学においては、哲学の営みを、礼を実践する「場」として形成することが必要であると申し上げてきました。テーマが中国哲学をめぐるものだったのでこのような言い方になりましたが、わたしの意図としては、学問一般において同様の試みがなされるべきであると思っています。そこで「主客」とは教員と学生ということになりますが、両者はこの場を共有して、学問という「儀式」を実践する(演じる)ことが求められる他は、誰が訪れてもいいのです。少なくとも、千篇一律の規格化された選抜試験をくぐり抜けてきた人だけにではなく、さまざまなバックグラウンド、さまざまな人生の段階にある人びとに開かれているべきです。世界中から集まってくる研究者と、大学の外からも集まってくる社会の各層の人びととが共に「主客」を演じ合うことによって、「人世の荒野」たる日常の社会から暫し離れたところで、世界と人間を根本的に、かつ継続的に問いつづけること、そこに学問(「問いを学ぶ」こと)の意味はあり、社会を変えていく想像力、つまり変革の駆動力は、このような学問のなかからこそ育まれていくことでしょう。イノベーションの揺籃としての学問の場、それが書院であり、そのモデルは、まさに岡倉天心が論じた茶のたしなみにも美しく表現されているのです。

 今日は初回ですので、「悦びの瞬間」に関する話ではなく、最近の思いつきを記しました。今後は、何かそのような瞬間に出会ったときにしたためてみたいと思います。

 

石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)