ブログ
2022.05.26

【報告】茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』を読む

People

茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』は、ある特異な半生を送ってきた女性が、別の特異な半生を送ってきた女性に接しての「聞き書き」である。そのような2つの人生が出会うことによって可能になったある意味では奇跡のような本である。日本の近現代を「小国」論の観点から、また「宗教と世俗」の観点から読み直すのなら、アイヌを意識することは欠かせないが、これまで自分の授業では扱うことができずにいた。今期は、評伝(安丸良夫『出口なお』)自伝(金子文子『何が私をこうさせたか』)と読んできたので、女性による女性の聞き書きはそれなりにバランスの取れた選択と思われた。そうした理由から選んでみたのだが、そもそも本書が2021年にちくま文庫に入っていなければ(単行本は筑摩書房から1984年に刊行)、この授業で読むことはなかっただろう。

あまり知られた著者ではなく(最初から名前を知っていた受講生はいなかったし、かく言う私も数ヶ月前までは知らなかった)、著者についての本格的な研究もまだないのだが、文庫本の表紙カバーには那須耕介他『ある女性の生き方――茅辺かのうをめぐって』(編集グループ〈SURE〉、2006年)が「評伝」として紹介されている。この小冊子を取り寄せてみたところ、法哲学を専門とする那須氏(2021年に53歳で早世)の柔軟な知性と教養にも魅せられた。鶴見俊輔の『思想の科学』のネットワークにいる人物ということもわかり、授業の流れも作れると思い、ぜひ取りあげようと気持ちが固まった。

那須耕介他『ある女性の生き方——茅辺かのうをめぐって』編集グループ〈SURE〉、2006年。

茅辺かのう(1924-2007)の本名は井上美奈子といい、京都に生まれ育った。父親は日本画家の井上永悠で、日本画の世界では珍しく特定の画壇に属さず、芸術至上主義的な偏屈者だったらしい。そういう父親を支える母親の姿も見ながら育った彼女は、戦後に国立大が初めて女性に門戸を開いたときに京都大学に入った女子学生第一期生の1人で、そこで戦後の労働運動・革命運動家として知られる山口健二と出会った。

1947年、男子京大生が女子京大生を刺殺する事件が起きた。山口はこのときの被害者の元恋人、加害者とは友人関係にあったようで、京都を離れて東京に出る。このとき2回生だった井上=茅辺も大学を中退して上京し、山口とは10年ほど一緒に暮らした。彼女は出版社勤務の傍ら、三池闘争の支援活動や1960年の安保闘争などにも加わった。司馬遼太郎『風神の門』の原稿は彼女の担当だった。

その彼女は1962年、38歳のとき、周囲から見ればかなり唐突に東京での生活を捨てて北海道に渡る。60年安保での挫折や、山口に年上で病気の女性が新しくできたことなど、原因は複合的なようだが、茅辺かのう自身の言葉を『階級を選びなおす』(文藝春秋、1970年)から引用すると、「小さくてもその時点までに積み上げて来たすべてを根底から崩し変えようと意図した」とある。「ふたりがひとりになり、職業を変え、住む土地を変え、具体的に自分を動かすことによって能う限りの自己変革を図ろうと思ったのです」。

40歳近くになって徹底的な自己変革をはかり、実行する人物は珍しい。連想したのは森有正(19111976)で、留学先のフランスでそれまでの自分を叩き直さなければならなくなった。彼女より1回り上の世代だが、渡仏した1950年は森38歳のときだから年齢は符合する。もっとも、井上=茅辺の場合は子どもを産むか産まないかで決断を迫られる時期でもあり、最初から家庭を作ることを拒否している山口との関係に「踏ん切り」をつける必要もあったのではと那須耕介は推察している。

茅辺かのう『階級を選びなおす』文藝春秋、1970年。

網走では水産加工場ではたらいた。学歴も職歴も不要の末端の肉体労働に従事すると決めており、工場でも最も身分の低い通いの主婦たちに混じって日給を受け取る。新米の仕事は魚を機械にかけることで、機械のペースに自分を合わせなければならない。「一番辛かったのは、単調な機械音と反復動作です。思考力を根こそぎ抜きとってしまうような延々と続く音と動作のくりかえしは神経を焦立たせ、耐えがたくさせました」。

単調な反復動作に疲弊すると、次の日に備えて休むほかなくなる。高学歴で知的な職業に従事していたのに労働者としてはたらくことを選んだ女性といえば、やはりシモーヌ・ヴェイユとの類似を思い浮かべる。ヴェイユと同じく、「ひどい疲れ」のために「もはや考えることをしない」ことが「苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法」であると思考停止の「誘惑」に駆られたこともあっただろう。機械が主で自分が「奴隷の身」という精神状態に陥ったこともあっただろう(『工場日記』田辺保訳)。もっとも、ヴェイユの場合は不幸についての思想を掘り下げて宗教論を練りあげていくとすれば、茅辺かのうの場合はオホーツク海に流氷を見にいくなど自然との触れ合いや読書が自分を取り戻す時間になっている。

工場での仕事に慣れると、周囲の人たちが話しかけてきた。女性労働者の多い工場で、身の上を聞かれる「煩わしさ」を感じつつ、そうした感覚こそを「払いおとしたい」思いと、やはり「自分をあけすけに」はできない思いを同時に持つ。彼女たちの「いきいきした会話を耳にして心から感心」し「実に魅力的」と思う反面、「特別面白くもない日常茶飯事を大事件のように感情をこめて、時には声をつまらせながら話しているのをきいて、何というくだらなさだろう」とも思う。現場で労働者はいきいきとしており、過去の自分も含めて「労働者の味方」のつもりで振る舞っている思想家や活動家は相手を理解してこなかったのではないかと反省する。

帯広に移った茅辺は、今度は農業労務者として農家に住込みではたらく。「働き食べ眠るという人間の生存の基本が、すっきりと繰り返されている」生活で、よく手入れされた住居と畑に感心しつつ、「徹底した男性尊重の生活」には違和感も抱く。網走の工場では主婦たちの会話が始終聞こえてきたが、帯広の農家の戸主は寡黙で、「家の中での会話が少なく団欒めいたものがなかった」。「収穫が一段落したとか、特に夜おそくまで働いたとか、仕事が快調に進んだとかいった時には、何か一言話し合った方がいいのではないか」と、思ったことを口にし、話し合いの場を持つ効用についても茅辺は述べている。

茅辺はまた、女性の農業労務者に当然のようにケア労働が押しつけられる状況を疑問視している。「呼び名は農業労務者ですが、実質は家事手伝、昔でいえば奉公人と同じように考えて雇っているように見えます。〔……〕家事にまで使うことが出来るために農家では女の労務者の方がいいといっていました。男は畑仕事の能率が上っても、台所仕事には使えないし却ってこちらで洗濯までしてやらねばならぬから手数がかかると平山さん〔茅辺が住込みではたらいた農家の戸主〕は話していました」。休みの日には仕事をしないと決めていたが、ある日その原則を崩して農家のルーティーンをしたことがある。すると、「そうしてくれることを待っていた〔……〕。休みだから何もせんでいいというのは、同じ屋根の下でくらしているのに水くさいことだから」と平山さんは喜んで話しかけてきた。

茅辺がこの農家に来たのは冷害に見舞われた年で、台所事情を察した彼女は契約を早く切りあげたほうがよいのではと気を利かせて話を切り出すと、平山さんからは本当にたいへんな状態なのでとてもありがたいという反応が返ってきた。このときほど彼が喜びに満ちあふれて多弁だったことはないと茅辺は皮肉も交えて冷静に観察しているが、この人物や家のことを一方的に悪しざまに述べているわけではない。住込みではたらくには食事の質も重要だが、平山さんの家の食生活は恵まれていたと好意的に記している。それでも「知りたいという気持をおさえないと成り立たない仕事や生活」のなかで、何度も「戦争や軍隊について考えた」とも述べている。

農家を出た茅辺かのうは、今度は阿寒湖畔のアイヌ土産品店ではたらくようになる。観光地の土産品店は、観光シーズンとシーズン・オフの生活の落差が激しく、「二重の虚構の上に成り立っているような生活」だと彼女は述べている。アイヌの「部落」の生活者から見れば土産物店は生活から遊離しているところがあるだろうし、観光客は土産品店を通してアイヌの習慣を想像する。店の女主人ヒサさん自身もアイヌで、アイヌの共同体に生きる人たちとは贈与と互恵性のなかで生きている。ヒサさんはよく貸したものが返ってこないとぼやいているが、別の形で元を取る関係ができていることを茅辺は見抜いている。

茅部は、組合の店を開くときの準備会合も興味深いものだったと述べている。集まってきたアイヌたちは開放的で能弁で、店を開く目的があっての打ち合わせなのに、話の内容は絶えず焦点がずれていく。相手が聞いていようといまいと、互いに気が済むまで喋り、それでも話し合いはできてしまっている。「テーマを持った打合わせであろうと、あらたまって順序よく話を進行させる必要も効果も認めていないようです。それほど日常の関りは深く、たがいの気心やくらし振りは知りつくしている人たちだからでしょうか」。現代社会での会議とはまるで様子が異なっている。

茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』ちくま文庫、2021年。

『アイヌの世界を生きる』は、旭川で暮らすようになった茅辺かのうが、阿寒湖畔でアイヌ土産品店を経営する「知人」(ヒサさん)から十勝に住むトキ(澤井トメノ)さんを紹介され、日本人として生まれながらも大きく変化する時代を「アイヌ」として生きてきたトキさんの半生に耳を傾けて書かれた本である。口述筆記をしたのは1973年の1月から2月にかけての半月ほど、出版されたのは1984年である。

トキさんは1906(明治39)年に福島県の農村で生まれた。父親が北海道に開拓農民として渡ったとき、母親は三人の子どもと福島に留まったが、残された家族の面倒を見るために神社に住込みではたらいているうちに、神主とのあいだに子どもができた。それがトキさんである。現代なら聖職者の性暴力として神主側が告発されるのではないかとも思うが、農家の嫁が夫の子どもではない私生児を産めば、村人が厳しい視線を注ぐのは女性に対してという時代である。母親は生まれたばかりの乳呑児を抱えて北海道に来た。

北海道での生活は貧しく、赤ん坊の面倒を言いつけられた異父兄は、あるときトキさんを川に投げ捨てた。それを聞いたアイヌの婦人が養母になることを申し出た。トキさんは自分を家族の祝福を受けて生まれたわけではない「悲劇の子」と言うが、養母はこの「シャモ〔日本人〕の子の利発さを見抜いて、一人前のアイヌに育てようとし、子供もそれに応えたのだった」と茅辺は評している。

とはいえ、明治維新前後に生まれた養母とトキさんの世代とではアイヌを取り巻く世界が大きく変化していた。1899(明治32)年の「北海道旧土人保護法」は、開墾を条件に土地を与えるという「恩恵」によってアイヌに移住を強制した。同法の法案理由書を分析した歴史学者の平野克弥は、「「慈愛」の語りが、同化・皇民化という包摂の論理とその暴力を包み隠す」と指摘している(「主権と「天皇の赤子」——アイヌの「救済」というセトラーコロニアル・レイシズムの論理」上村静・茢田真司・川村覚文・関口寛・寺戸淳子・山本明宏編『差別の構造と国民国家——宗教と公共性』法蔵館、2021年)。

養母は「自然の恵みを採り集めるために、通い馴れた山や川辺や森へ」出かけたが、「畑仕事をするのは子供たちだった」。「コタン〔集落〕には、一族のうち最も年のいった女性を巫女として敬う風習があった」が、「世の中がどんどん変り、養母の一族はその後巫女の役割を継ぐ人を持たなかった」。トキさんが「ほんとうの熊おくり」(イオマンテ)を見たのも1度きりで、その後は公衆の面前で動物を殺すのは残酷という理由で事実上禁止となった。だが「イオマンテは、熊の再生を信じて熊神を祀る厳粛な行事であって、アイヌにとっては、「殺す」ことにはならない」。トキさんも熊を「殺す」とか「死なせる」という表現は使わなかったと茅辺は書いている。

トキさんは1922(大正11)年に17歳でサバネクル(酋長)を務めた家の当時20歳だった長男と結婚し、12人の子どもを産んだ(最後の子は1948年生まれ)。「養母のように、日本人を嫌い日本語を拒否して誇り高く生きる余地は、もうなくっていた。自分の子供たちは日本人と変りなく育て、これからの世の中で通用するようにしてやりたいと、トキさんは願った」。トキさんは、養母とはアイヌ語で話したが、子どもたちとは日本語で話した。「自分が受け継いだアイヌに関わるあらゆること――伝説や教訓や習慣や言葉などは、自分の子供たちに伝えなかった。〔……〕そこに拘っていては生きられない社会になっていた」。

そうしてアイヌ語を日常語としては使わない暮らしを50年ほど続けてきたトキさんが、聞き書きを思い立った。だが、大切な話ができる相手は誰でもよいわけがない。「アイヌ語を聞きにくる人は、山の名前やら昔話やら面白そうなことばかり知りたがるけど、いちばん肝腎の人間と生活を知らなかったら、本当の意味はわからないんだよ」。北海道で自分を作り替えた茅辺かのうと出会い、この人ならと思ってこその語り聞かせだったのだろう。「ある意味では奇跡のような本」と評したゆえんである。

受講生のSKさんは、学問としての日本の民俗学には、マニュアル化された質問と予定調和的な回答が集積される状況に陥っていると自己反省しなければならなかった時期があったことを紹介してくれた。良質の聞き書きとは、ある種の事実に基づく創造であり、凡庸な民俗学的な調査や研究とは次元を異にする。石牟礼道子の『苦界浄土』は1969年、森崎和江の『まっくら』は1961年で『からゆきさん』は1980年、そして藤本和子の『塩を食う女たち』は1982年の刊行である。1984年に出版された茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』もこの系譜にある。

別の受講生KMさんは、トキさんのアイデンティティを支えてきたアイヌ語は、著者の前でどのように響いたのかを知りたいと発言した。本書にはカタカナでアイヌ語が書きとめられているが、それで音声が再現できるわけではない。トキさんは、テープレコーダーでの録音も嫌がった。音声を文字に還元することはできない。充実した音声は録音機でも再現できない。文字や機械による記録はひとつの堕落かもしれない。KMさんはジャック・デリダの「プラトンのパルマケイアー」を参照し、エクリチュールが「真理ではなく外見を産出する」側面を持つことを指摘しながら、聞き書きでアイヌの言葉を残そうとしたトキさんにも文字をめぐる葛藤があったのではないかと述べた。

聞き書きも終わりに近づいた節分の夜のこと。茅辺はトキさんの姿を次のように印象深く描き出している。「自分の畑で獲れた大豆を五合ほども炒り、ありたけの声で「福は内、鬼は外」と繰り返しながら、部屋部屋に撒いて回った。アイヌの唄に特有の抑揚をつけた叫びは、闇の魔物を追い払うための呪文のように家中にひびいた。〔……〕トキさんは日本人の節分に託して、アイヌの神々と交感し無我の境地に浸っていたにちがいない」。日本とアイヌの二重性を背負った彼女の声の抑揚を、読者は知りたくても再現することができない。しかし、それを想像する余地が残されていないわけではない。

報告者:伊達聖伸(総合文化研究科)