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2022.08.01

【報告】國分功一郎氏 2022年夏学期末特別講話 「不要不急と民主主義」

202281日、國分功一郎氏(総合文化研究科)による2022年夏学期末特別講話 「不要不急と民主主義」が開催された。試験期間中の忙しい合間を縫って、約20名の学生諸氏が集った。

コロナ禍のいわゆる「新しい日常」が始まって3年余が経過した。一体この間、何が進行し、どのような変化を強いられてきたのだろうか。國分氏は、コロナ禍初期、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンがウェブ上で発表し、物議を醸した文章に言及した。アガンベンの主張は、実際に多くの人々が未知のウイルスに斃れる中、感染対策として実行される諸政策に真っ向から批判を加えるものであったがために、この文章をめぐっていわば「炎上」騒動が生じた。國分氏は、アガンベンの主張は必ずしも全肯定できるものではないにしても、あのような状況下において、彼が行った様な批判がなされることには大きな意義があった、と言う。

移動の自由の確保、死者の権利の尊重、行政権力の肥大化(あるいは例外状態の是認)への警戒、というのがアガンベンの主な論点であったが、國分氏は特に、3点目の「行政権力」の問題にフォーカスして話を進めた。國分氏によれば、「不要不急」というスローガンのもと進行したことは、それ以前からあったことがより加速化され、あらわになった、ということである。「生存と健康」を建前にあらゆることが制限されるとき、それに対する有効な反論の方法がもはや奪われてしまっているか、それを試みたとしても相当に難しい、ということを私たちは今実感している。

その難しさの核心にあるものとして、國分氏はアーレントやベンヤミンのテクストを参照しながら、「目的―手段連関」という問題に迫った。何かを行う時にまず「目的」が設定され、そのために「手段」を講じるという、“合理的”な発想に慣れきってしまっているこの社会は、それにそぐわない浪費や贅沢、無駄、遊び、といったことを許容できなくなっている。その要因の一つは、利益を最大化するという「目的」、つまり資本主義に基づいた「目的」があまりに自明視されてしまっていることに起因している。

このような「目的―手段連関」は、今や経済という領域を超えて、ありとあらゆる領域に侵食している。とりわけ「政治」という領域が、この連関によって完全に飲み込まれてしまうことの危険性を、國分氏は強調した。「政治」が目的合理性に覆い尽くされる時、「政治」は消去され、「管理」だけが残る。「ガバナンス」という掛け声が各所で聞かれる様になって久しい昨今、もしかすると「政治」を自ら手放し、管理されることに対して反発しないことがすでに常態化しているかもしれない。

このように私たちが生きる世界を非常に強固に規定している「目的―手段連関」の外側に出るための一つの方法として國分氏が掲げるのは、「遊びとしての政治」という発想である。行政管理に還元できない余剰を含み込んでいるものとしての「政治」を実践することは、真剣に「遊ぶ」ことによって可能となる。これは実は、古くはプラトンが晩年の著作『法律』で論じたことでもあった。

イギリスの批評家で『資本主義リアリズム』の著者マーク・フィッシャーは、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」と述べ、資本主義以外の世界を想像する力が現代社会において決定的に喪失されていることを指摘した。「不要不急」がもたらす最大の不幸は、今・ここ以外の世界を想像する力を奪ってしまうことだろう。質疑応答では参加した学生から、「政治」における「他者」の問題や「責任」の問題という重要なテーマが投げかけられた。「目的―手段連関」がいわば一つの信仰のように強固である今、それを抜け出すための方策をともに思考した、濃密な3時間だった。

報告者:崎濱紗奈(EAA特任助教)

本講話は、2020年10月2日に國分氏が行ったオンライン講演「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題————ジョルジョ・アガンベンの問題提起から考える」(「東大TV 高校生と大学生のための金曜特別講座」)の続編となるものです。併せてご覧ください。