音と声はちがう。音とことばはちがう。そして、音と音楽はもっとちがう。「音を作る」ことは、音楽を作ることとはまったく別の行為であるという、立ち止まって振り返れば至極当たり前のことに気づかされたのが、2025年9月22日(月)に行われたこのトークシリーズだった。ひとりの聴衆としてのわたしが覚えた感想をまずひと言で示すとこのようなことになる。
2024年度にスタートし、すでに第8回目を迎えたこのトークシリーズの全容については、これまでの記録があるのでここでは述べない。研究と教育に加えて社会連携を第三の柱に据えて活動してきた東アジア藝文書院が取り組むこのイベントシリーズは、今回、ヤマハ株式会社から森隆志さんをお迎えした。森さんは同社で電子楽器の音作りに取り組んできた音のエキスパートだ。一方、本学からは駒場でフランス近現代美術史を講ずる松井裕美さんが登壇し、色彩と絵画の側から音と音楽のテクノロジーに応答した。以下では、森さんと松井さんが話してくださったことを再現するのではなく、話を聞いたわたしが考えたことを記してみたいと思う。


電子楽器の音作りは、デジタル技術の確立によって根本的に変化したのだということが森さんの話からはよくわかった。アコースティックな楽器の音とは異なり、デジタル的に形成された音には、音楽表現によって用いられる範囲をはるかに超える多様な音が識別可能な音源として提供される。それらを組み合わせることによって音のイメージが形成されるが(例えば夏のセミの鳴き声とか)、一方で「よい音」とは何かという問いが、技術だけではなく市場的ニーズとのバランスによって条件づけられることになると森さんは言う。
わたしたちが聞き分けることのできる音は、耳に与えられた生物的な機能によって始めから条件づけられている。空気の振動を音として察知するわたしたちは、音を発する物に直接触れることなく、その存在を感じ取っているのだが、しかし音がなくても物の存在を感じ取ることはできるだろう。それを可能にするのが視覚や触覚、嗅覚であることは言うまでもないが、それ以外にも、そこに何か尋常ならぬ空気の存在を感じる、つまり気配を感じることによって、わたしたちは見えないし聞こえない何かの存在を感じることができる。それは、空気の振動、いや空気の波動が「気配」として感知されるからにほかならない。「気配」という熟語がいみじくも示すように、中国哲学の「気」なる概念は、そうした不可聴かつ不可視な気配に対するきわめて即物主義的な発想から生み出された。『荘子』に「これを聴くに気を以てす」と言うとおりだ。そうだとすれば、わたしたちはアコースティック楽器の演奏を聴いている時には、デジタル演奏では聞き取ることのできない何かを、音として関知することのないままに感じているにちがいない。
森さんは、聴覚は、感覚与件を与える対象に直接触れるのではなく、空気の振動を音として感知することによって対象の存在を認識させる感覚であるという点で、嗅覚や味覚とは異なっていると述べていた。そうした対比のもとでは、おそらく視覚も聴覚と同様であると言えそうだ。何らかの対象を視覚的に認識することができるのは、光が対象に反射して生じる波長をわたしたちの目が感じ取っているからにほかならない。物質そのものではなく、それが存在することによって与えられる波長に対する知覚という意味で聴覚と視覚は共通している。「絵画は音楽にあこがれる」という命題から出発した松井さんのコメントは、本来、聴覚と視覚のかかる類似性を思えば、不思議なことではないのかもしれない。もちろん、平面の上に世界を展開する絵画は——少なくとも近代西洋画は——時間性が稀薄であり、だからこそ、絵画の平面に時間性を描き込んでいこうとする現代抽象画の試みが、「音楽へのあこがれ」として始まったことには、絵画特有の事情があるということなのだろう。

対談後のフロアディスカッションでも興味深いコメントが挙がった。印象深かったのは、小学校の音楽で使用されるピアニカの音色が美しくないので、改善する方法を考えてほしいという声が教育の現場から挙がっているという話だった。しかしわたしたちはいったい何を以て美しい音とそうでない音を判別しているのだろうか。森さんの話では、聴覚はもともと危険を察知する役割を担っており、他の感覚と総合しながら脳の中で取捨選択が行われているのだった。そうだとすると、特定の音を、それが危険をもたらすものではないと知りながら、なおも美しくない、不快であると感じるのだとしたら、それはなぜなのだろうか。美醜や快不快の判断には社会文化的な文脈や、それを深く内面化した無意識が作用してはいないだろうか。デジタル技術によって、人々が均しく美しく快適であると感じる音だけを使って音響効果を生み出すことは、きっといとも簡単なことであるにちがいない。しかし、そのような操作は、文脈的につくり出されるわたしたちの後天的な感性を育むことを阻害するのではないだろうかとわたしはあやしまずにはいられない。
最後にもう一つ、「聴く」に加えて「見る」についても中国哲学の側から附言しておくと、音としては聞こえない気を「聴く」という考え方に対して、「見る」場合にも、現実に見えているかどうかは中国の絵画にとって実はあまり重要ではない。中国絵画の八大技法の第一として有名な「気韻生動」がある。その字が示すように、気(気配、雰囲気)と韻(リズム)が生き生きとした「意境」として表現されていることがよい絵画作品には不可欠である。そうは言っても、わたしはただ中国絵画の西洋絵画にはない特徴を声高に強調したいわけではない。逆である。絵画には全く疎いわたしだが、中国絵画の特徴としていつも強調されるこうした側面が、中国絵画にしかないと考えるのは誤りであると根拠もなく信じている。じっさい、西洋の近現代絵画を見ればそのことは明らかではないだろうか。
音も色も数値化され電子的な技術によって制御されるようになって久しい。そうした今日的現実のもとでこそ、もう一度感性の基礎を問い直すための機は十分に熟している。今回の対談が、新たな美学(aesthetics、感性の学問)を開く一つの小さなきっかけになることを願っている。
報告者:石井剛(EAA院長)
写真:加藤菜穂