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2021.09.03

【報告】連続シンポジウム「世界哲学・世界哲学史を再考する」第5回「世界哲学における「尊厳」概念」

『世界哲学史』(全8巻+別巻、ちくま新書)

2021年722日(木)、連続シンポジウム「世界哲学・世界哲学史を再考する」の第5回「世界哲学における「尊厳」概念」がZOOM にて開催された。この連続シンポジウムは、2020年に筑摩書房から刊行された『世界哲学史』シリーズ(全8+別巻)の編者である納富信留氏(東京大学)をオーガナイザーとして迎え、「世界哲学(史)」という概念を再構築し、その方法論的な意義を探る試みの一環である。

今回のシンポジウムでは、オーガナイザーの納富氏に加えて、科研費(基盤S)プロジェクト「尊厳概念のグローバルスタンダードの構築に向けた理論的・概念史的・比較文化論的研究」(以下、「尊厳」プロジェクトと略称)に携わっている加藤泰史氏(椙山女学園大学/一橋大学)と小島毅氏(東京大学人文社会系研究科)が登壇し、世界哲学・世界哲学史の視点から、「尊厳」という概念について提題した。その後、コメンテーターを務める犬塚悠氏(名古屋工業大学)が自身の研究分野に基づきつつ、二つの報告に対してコメントを述べた。

まずは納富氏から本イベントの趣旨説明がなされた。氏は「尊厳」プロジェクトの問題設定と研究内容および研究成果(加藤泰史編『尊厳概念のダイナミズム』(法政大学出版局、2017年)、加藤泰史・小島毅編『尊厳と社会』上・下(法政大学出版会、2020年)、加藤泰史・小倉紀蔵・小島毅編『東アジアの尊厳概念』(法政大学出版局、2021年)など)を簡単に紹介したうえで、今回のシンポジウムでは世界哲学・世界哲学史の視座から時代・地域を横断し、「尊厳」概念とほかの概念・問題系との連関、「尊厳」を考える「哲学」の役割、ないしそれを世界哲学から考えることの意義を問うという。

そのあと、一人目の発表者加藤泰史氏は「尊厳概念の多元化と世界哲学/世界哲学史構想の問題」と題する発表を行なった。氏は自身が研究代表者を務めている「尊厳」プロジェクトについて改めて説明した。本プロジェクトは尊厳概念を多角的な観点から総合的に分析し、普遍的な尊厳概念のグローバルスタンダードを日本から発信することを目指すもので、理論的・概念史的・比較文化論的なアプローチをとっているという。そして欧米・日本・非欧米をともに視野に入れる本プロジェクトの組織図および「尊厳」概念と関連する諸問題・諸分野をも提示した。次に、氏はかつて提起された世界哲学/世界哲学史の構想として、Kleine Weltgeschichte der Philosophie1950)を著したドイツの学者シュテーリッヒ(Hans Joachim Störig, 19152009)の構想を紹介した。氏によれば、シュテーリッヒの世界哲学史構想には西洋の自己批判や東洋哲学への目配りがあったものの、「世界」をそのまま哲学の対象とみなすこと、論述がやはり「西洋哲学史」に収斂すること、そして日本哲学が不在であることなど、いくつかの問題も含まれていた。それに対してシリーズ『世界哲学史』(筑摩書房、2020年)の構想は「世界」そのものを「私たちが生きる現場」と哲学の現場、さらには「世界」が哲学する現場と主語的に理解し、「世界哲学」の「歴史化」によって「哲学の始まり」を問い直すという、多元的に開かれた普遍性を探究するものであると氏は評価した。そして氏によれば、この構想では「世界」と「生」の緊張関係が問い返され、「尊厳」概念は両者を媒介する原理の一つになる。さらにこうした構想はヴィンデルバントとクレプスの問題史(Problemgeschichte)的構想にもつながるという。

では、世界哲学/世界哲学史から見た尊厳概念はどのようなものなのか。加藤氏にしたがえば、「尊厳」は道徳的概念として古代から近現代にかけて議論されてきたが、戦後は国際条約や憲法(スイス憲法(1999年)など)に組み込まれて法的概念にもなり、近年は「被造物の尊厳」「生命の尊厳」「高齢者の尊厳」と多元化している。氏の考えでは、尊厳概念は人間および自然に対する人間の道徳的態度を原理的に再考するための手掛かりとして、「世界哲学」に「新たな社会統合/世界統合」の包括的原理への問いを突きつける。そしてこのような尊厳概念をめぐる意味争奪戦、すなわち獲得・喪失可能な「尊厳」(小松美彦・倪培民の問題提起)vs喪失不可能な「尊厳」という解釈の対立は現在のカント哲学理解に看取できるという。最後に加藤氏は人間以外のものの尊厳を考える際に東アジア/日本の哲学を生かす意義に触れつつ、最近の儒教的尊厳論の試みおよびその問題点を紹介して本発表を終えた。

続いて二人目の発表者小島毅氏は「「文化中国」と「自由」」というタイトルで発表を行なった。中国思想文化を専門とする小島氏はまず、「中国」というものを歴史的に捉えるにあたって参考になる文献として、葛兆光の『中国再考』(岩波書店、2014年)と『中国は「中国」なのか』(東方書店、2020年)を挙げた。さらに氏は自身の「中国」理解として、「政治的中国」(political China)、「民族的中国」(ethnical China)、「文化的中国」(cultural China)を挙げて説明した。氏によれば、政治的中国とは「中国」という国号を用いる国のことであり、民族的中国とは「中華民族」を指しているが、この言葉自体は20世紀初の革命派による造語である。ではこの二つに対して、文化的中国とは何なのか。小島氏は、「文化中国」という表現を世に広めた現代新儒家第三世代とされる杜維明(Tu Wei-ming)の議論を取り上げ、そこで語られる「文化中国」とは中国大陸・香港・台湾の人々および世界各地の華人、さらに中国研究に携わる各国の学者まで含めた概念であると紹介した。そして近年の中華人民共和国における儒学尊重の動きに触れつつ、儒学を誇るべき文化的伝統とみなす現在の中国(大陸)の儒学評価は、「批林批孔」が行われた時期の儒教観と全く異なると指摘した。

次に小島氏は、かつて中華人民共和国が儒家思想を悪しき伝統として批判していた時期においてそれに反対して中国の伝統文化を守るべきだと主張した人たちの言論、とりわけ牟宗三・徐復觀・張君勱・唐君毅が1958年に連名で発表した「為中國文化敬告世界人士宣言」を紹介した。そのうえで唐君毅(19091978)の儒学論に焦点をあてて議論を展開した。氏によれば、唐は『論語』における「仁を為すは己に由る(為仁由己)」という孔子の言葉に着目して「己に由る(由己)」を「自らに由る(由自)」と解釈し、それを「自由」と捉え、儒家思想には古くから「自由」の表現があり、しかも孔子のいう自由は「良知」「仁心」、「礼」の精神、家・国・天下を重視する点では西洋思想より優れているとした。氏はほかに中国古代思想の「自然」という語に「自由」の意味を読み込む胡適や、中国文化の世界的普遍性を説く許紀霖(許紀霖著、中島隆博・王前監訳『普遍的価値を求める』法政大学出版局、2020年)の議論にも言及した。氏自身の考えとして、もし文化的中国に世界的普遍的な意義があるとすれば、それは「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」(『論語』)という原理に見出しうる。最後に氏は今日の中国で起きている、人間の尊厳に深く関わる諸問題を西洋中心主義ではない形でどう考えるかという問いを投げかけて、本発表を締め括った。

両氏の発表が終わったあと、コメンテーターの犬塚悠氏は本日の発表のみならず「尊厳」プロジェクトの既刊研究成果をも踏まえながらコメントと質問を述べた。犬塚氏はまず「人間に対する人間の道徳的態度」と「自然に対する人間の道徳的態度」および(両者に対応する)「人間中心主義」と「非人間中心主義」に関する加藤氏の議論に触れながら、非人間中心主義的尊厳概念は可能なのか、可能だとしたらどのような解釈が必要なのかと問うた。犬塚氏の見方では、「人間の尊厳」を比較考量できない不可侵なものと理解すれば、それをほかの生物へ適用することが難しくなり、一方で尊厳を「個」ではなくある全体性(「人間性」、「自然」)にあるものと捉えてしまう場合、人間個人の尊厳も危うくなる以上、問題領域によって異なる尊厳概念が必要になる。次に犬塚氏は小島氏の議論における唐君毅と牟宗三のカント批判にある類似点に着目し、理性に対する良知の優位性について唐と牟との立場は共通するかと問いかけつつ、近年の日本哲学研究における身体論と比較する可能性を示唆した。続いて(小島氏の論文で述べられた)朱子学や仏教に見られる非人間中心主義的な可能性は唐君毅らの哲学においても見出せるか、その哲学の現代的意義とは何かという質問を投げた。

さらに、加藤氏と小島氏両方への質問として、犬塚氏は、尊厳概念が歴史的に変化していくという事実がすでに指摘されている以上、「尊厳」プロジェクトに見られる尊厳概念に関する包括的な理論的枠組みの追求の可能性と可欲性について疑問を呈した。この点と関連して犬塚氏は自身の専門でもある環境倫理学における一種のプラグマテイズムへの傾斜に言及した。つまり様々な理論的対立があるのに対して、環境プラグマティズムは理論的討論よりもむしろ政策の合意という実践的問題のほうに注目するという。

その後、納富氏もギリシア哲学を取り上げながら「尊厳」と関連諸概念の関係について自身の見解を簡潔に述べた。そして犬塚氏と納富氏のコメントに加藤氏と小島氏がそれぞれ応答する形で討論は展開されていった。

本報告では十分紹介できなかったが、本日の議論を振り返ると、「尊厳」は(肯定的にも否定的にも)「生」の問題と結び付けられて語られたことが多いという印象を受けた。では「死」の問題つまり「死者の尊厳」はどうなのか、死に対する道徳的態度・行為もまたこの世を生きる私たちの生を少なからず規定するのではないか、と思われる。いずれにしても、「尊厳」概念に論点を絞った今回のシンポジウムは「人間」と「世界」の向き合い方を考え直すための手がかりを提供してくれたと言えよう。

報告者:郭馳洋(EAA特任研究員)

第5回シンポジウムの参加者からいただいたご質問・コメントの一部(字句修正あり)を紹介させていただきます。回答はシンポジウム発表者個人の意見です。

Q 尊厳概念の多様化は、尊厳という概念の内実を空無化するのではないであろうか。尊厳あるもの同士の比較考量が必要になれば、尊厳概念の持つ「重み」「絶対性」が失われるのではないであろうか。

A(加藤)

ご質問ありがとうございました。概念の比較検討・比較考量と、尊厳あるもの同士の比較考量とは別問題であると考えています。概念の比較考量が直ちに尊厳概念の絶対性の喪失であるとすると、絶対性を主張する概念を無批判的に受容するだけになってしまうのではないでしょうか。それは哲学的ではないと考えます。

A(小島)

「尊厳」概念について。尊厳を単数化・純粋化するのではなく、多様な考え方を分析した上で整理し、メタレベルでの普遍的なものを探っていこうという趣旨です。

A(納富)

世界哲学は、普遍的な思考を多元的に展開することを目指しています。どれか一つのスタンダードで割り切るのではなく、それぞれの文化・思想背景を踏まえて両立的に生かしていくという試みです。「尊厳」という概念についても、その実践が期待されます。

Q 世界が哲学すると言うときに、「神」的なものの位置づけはどのようなものになるでしょうか。話の全体としては、ヘーゲルのように「精神」「霊」の自己展開として世界史をとらえ、その自己知として世界哲学をとらえているのか、というのが気になりました。神、精神という言葉を使うかどうかに限らず、その機能的等価物となる概念に着目し、それが現代社会でどう働くのかを考えるということになるのでしょうか。

A(加藤)

ご質問ありがとうございました。「世界」が哲学する現場となると言いました時に、世界が自己展開するというようなヘーゲル的な枠組みは考えておりませんでした。むしろ西洋中心主義的な観点を相対化できる視点を提供できる場として世界を捉えたいと考えています。西洋からは非西洋との哲学的対立などはあまり問題にならないでしょう(シュテーリッヒも結局は不徹底に終わりました)。非西洋を含み込んだ「世界」の観点だからこそこの対立が可視化・問題化できると考えます。「世界」に視座を置くことで、これまで可視化できなかった様々な対立が可視化できますので、その意味で「世界」の自己展開というよりは「世界」の自己暴露と考えていただいた方が良いでしょう。「神」的なものもそこで暴露された問題の一つとして問題史を構成できますが、その際には現代的な観点から宗教と科学技術の問題を核として描き出せるのではないかと思います。いずれにしましても、暴露される「世界」の問題・対立には、精神や神も含まれますが、それらやそれらの機能的等価物にのみ限定する必要はなく、貨幣や都市、文化、価値なども含み込まれてくると考えています。

Q 尊厳については、人格があるかどうかで尊厳を認めるかどうかが決まるという視点が生命倫理にはあります。生命の尊厳のsanctityは人格なき存在にも認められるのでしょうか。付与したり剥奪されるものではない、比較考量の対象でもない存在の内在的価値(ヨナス)に近いものとして理解してよいでしょうか。それは改変を許さないものなのか、あるいはその尊厳を保守するために介入する必要があるものなのか。確認できればと思います。

A(加藤)

Sanctityは基本的に神学的概念だと位置づけます。日本語の尊厳は哲学的概念としてのDignityに対応すると考えます。その意味で尊厳には人格概念との密接な結びつきがあります。ハーバーマスらがペットまでに尊厳を拡張しようとする場合、この人格概念との結びつきや人格の内実そのものを薄めることで拡張できるとします。ペットには類比的に人格的なものが認められるから、あるいはケイパビリティの一部を人間と共有しているから類比的に尊厳的なものを認めることができるというわけです。しかし、私自身は問題の焦点は人格概念そのものの内実にあると考えています。この点を別の角度から見直してゆきたいと思います。ヨナスの議論は厳密には、Dignity of Lifeではなく、あくまでもSanctity of Lifeという神学的概念に基づくものであって、生命の神聖性であると解釈します。ただし、東アジアではこのヨナス的なニュアンスも尊厳として理解して違和感なく「生命の尊厳」という言い回しが使用されていると私は分析しますので、この問題を何かさらに掘り下げることができないかと模索しておりますところです。

A(小島)

ご質問のなかにでてくる「人格」という概念についての考察が、その場合には必要になるでしょう。(「玉ねぎの皮」状態になってしまう恐れはありますが・・)

Q 統計学でよく言われていますが、「標準」「平均」の危険性をどのように表現されているかを伺いたかったです。例えば、基準・標準という枠組みで「世界」いわゆる「グローバルスタンダード」として捉えると「個・固有」の尊厳が軽視される可能性があるのではないか。それぞれのファクターが、相互作用しているシステムとして考えると腑に落ちるかと思います。「弱者の保護」は社会福祉理念でいうところの「劣等処遇」であるため、尊厳概念から拮抗している可能性があるのではないか。東側諸国と西側諸国から発展した世界の現状からすると重要なことは、多文化、地域性を大切にすること、ヒトはそれだけでは存在しえないため、環境との相互作用があって存在しているため、古い話で恐縮ですが「宇宙船地球号」のような考え方が適切ではないかと思いました。

A(加藤)

ご質問をありがとうございました。グローバルスタンダードはただ単に西洋的な尊厳概念を基準として受け入れるのではなく、非西洋からもそれを問い返して非西洋を包括する概念構築を目指したいという意図を言い表した言葉として使いました。しかし、よくよく考えますとご指摘の問題は重要だと思います。尊厳を名誉概念の一種と捉える解釈はもちろん存在しますが、私自身はそれとは切り離して内実を構成したいと考えています。環境との相互作用はまさに自然倫理学構想の重要な要点です。ご指摘に感謝いたします。

A(小島)

「標準」重視・「個」の軽視というご意見に同感です。数量で判断するのと違う視点をどう説得的に提示できるか、共感してもらえるかが鍵であろうと考えています。そうした手法は科学的ではないと批判する人たちもいるでしょうが、そもそも(そういう意味での)「科学的」である必要はないというのが私の見解です。

環境の問題が重要なのはいうまでもありません。他の重要問題(人権など)とならべて併せ考えることを心がけます。

Q 良知・良心・思慮の関係については、個人的にとても深い関心を持っています。いつか取り上げていただきたいです。特に、小島先生のお話をうかがいたいです。conscienceをなぜ良知と訳さなかったのか。私の考えでは、良知は可謬性を免れているのに対して、conscienceは可謬的であることにポイントがあると思います。その意味で、良知は、やはり可謬的でないsynderesisに近く、その訳語としてふさわしいと言えるのではないでしょうか。

A(小島)

可謬的かどうかという捉え方は魅力的に思えました。ありがとうございます。Conscienceがなぜ「良心」になったのかの詳しい経緯を私は存じませんが(大西祝は私も好きなのですが・・)、良知という概念は陽明学の致良知によって手垢に塗れていると明治期の学者たち(とりわけ西洋文化の紹介者たち)には見えたのかもしれないという推察をしています。本来の良知は『孟子』に良能と並んで見える語で、分析的に解釈する場合(朱子学など)は前者を思考の、後者を実践のもとになる本性とします。唐君毅や牟宗三は陽明学的に良知を捉えているため、西洋でいうところの(と彼らが理解していた)理性より高等であると論じています。ただし思想史的には彼らの説は当たっていないというのが、私の見解です。

Q 私はカトリック思想を主に研究しているのですが、 M. シェーラーも指摘している通り、フランシスコは全ての被造物にある種の輝きを見ました。これはイエスの体験の共有だと考えられます。「ここでは[ルカ 12 : 22-32]動植物と人間が、いのちとして、しかも無為のまま現に神によって生かされている生命として[…]、一体のものとされている。イエスの目には、空の鳥と野の草花が人間と共なる被造物として、生かされてあるいのちという根源的的な現実を啓示するものとして映っている」(大貫隆『イエスという経験』 72 )。宗教者にとっては尊厳は宗教的に経験されるものでしょうから、生命の尊厳を宗教現象学的な視点からも見てみると面白いかもしれません。また、東方教会はすぐれた哲学的伝統を有していますが、そこでは「いのち」が「神的エネルゲイア」などの概念と結び付けられており、さまざまな議論が展開されているようです。近年「神化」が世界中で注目されていますが(『テオーシス─ 東方・西方教会における人間神化思想の伝統』阿部善彦・田島照久編)、そこでもやはり神と一体化する中で被造物の価値が輝く、という考えがあるようです。(この辺は仏教思想などとも似ているのかもしれません。)(今夏発行予定のカトリック神学会誌の「シェーラーのアシジの聖フランシスコ観」という拙論でこれらの点を扱っています。)ちなみに、「いのちの思想」はカトリックでも近年回勅『ラウダートシ』などを通して見直されつつあり、今後カトリックの教義として広く展開されていく見通しです。(先日の教皇来日の際のスローガンは「すべてのいのちを守るため」でしたし、最近、「愛するアマゾン」という使徒的勧告も出されました。)

A(加藤)

ご質問とご指摘をありがとうございました。確かにシェーラーの中に生命の尊厳を読み取ろうとする解釈もあります(加藤尚武など)。ご高論は探して拝読し、勉強したいと思います。貴重な情報にも感謝いたします。

A(小島)

当事者という概念は翻訳しづらい概念です。だからこそ、それは「わたし」というあり方を鍛え直してくれると思います。それは、従来の主体と客体といった対立を問い直し、「わたし」がより複雑に世界に関与していること、他者と関わっていることを考えさせてくれるのではないでしょうか。

⑦ 

Q 西洋哲学ではかつてカントの死刑支持論が支配的であり、これに対抗する死刑廃止論はデリダが2000年に初めて提起しています。フランス政権はこれを受けて死刑廃止に転じ、いまや国際的には死刑支持の国は少数派となりました。日本が何らか特殊な価値意識から死刑支持を存続させるのであれば、それに見合った理論的根拠で世界を説得する明確な意思表示が必要ではないでしょうか。国家による生命の毀損というこの難問は、数々の「尊厳の毀損」事例より切迫した問題であり、東アジアの価値として「生命の尊厳」を主張するのであればなおさら必要な課題ではないでしょうか。

A(加藤)

私はカントの主張が全て正しいとは考えておりません。カントの死刑論には批判的です。この点に関してはデリダの議論の方が説得的であると考えます(他方で、デリダの歓待論はカントの重要な要点を見落としていると解釈しています)。

A(小島)

死刑が国家による生命の毀損行為かどうかは見解が分かれるところであり、私自身は質問者に同意しかねます。それが(日本同様に死刑制度が存在する中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国にも見られる)東アジアにおける共通の伝統なのかどうかは簡単には言えませんけれど、検討・考察を必要とする課題であるかもしれません。ありがとうございます。

⑧ 

Q 端的な「人間中心主義」には現代哲学からの批判があるが、古代哲学や近世哲学の人間規定に問題がある(たとえば良知を排除する科学主義)という趣旨であり、まずこれを反省・調停する必要がある。それにより自然環境・歴史的所産・多元主義に配慮した新たな共存の理念と制度を提案できるようになるのではないか。伝統哲学のテクストにはすでに現代哲学の批判を予期し応答している構想があるのではないか。もちろん日本哲学のテクストにも。これまで解釈されずにいたそうした諸構想を発見し新たな解釈による哲学史として提起すべきではないのか。

A(小島)

伝統哲学の再評価という観点は同感です。私は「科学」という概念規定を問題化していく必要がある(=この議論に自然科学者に加わってもらう)と考えています。

⑨ 

Q axia(?)が古代ギリシアにおいては概念ではないとのお話がありましたが、そうだとすると、axiaという概念があってもなくても古代ギリシアの哲学は、同じ内容が保てるということなのでしょうか。言葉としてあるということと、概念としてあるということの違いについて知りたかったです。

A(納富)

ギリシア語の形容詞axios(値する)はホメロス以来普通に使われている言葉で、その名詞形axia(価値)はやはりヘロドトスあたりから様々な文脈で出てきます。プラトンもそれらの語を一般的な意味で使いますが、それ自体が定義されたり、哲学的に限定された意味で使われてはいません。例えば、『法律』第12945Bに「役職の威厳」という用例がありますが、そのように事物の価値一般です。キケロら後世の受け取り方は別にして、プラトン自身ではこの言葉に特別に注目はしていないという限りで、「尊厳」概念の歴史的起源がプラトンにあるという一部の研究者の説明は哲学史的には不正確だと考えます。

哲学概念はもとは日常語だった言葉をテクニカルに使うことで成立する場合が多いのですが、その場合は限定された特殊な意味が加わります。axiaという単語について、プラトンではそういった術語化は見られません。

⑩ Q

素朴な疑問ですが、なぜ世界哲学史であって、世界思想史でないのか疑問です。そこで、思想と区別される「哲学」のメルクマールは何なのでしょうか? なお、思想・哲学の共時的比較としては、中村元の業績が重要であると思います。中村の「世界思想史」などを参照すると、加藤先生が提示していたような問題は、かなり整理できるように思います。

A(加藤)

従来では西洋哲学の概念や枠組みの共有がある場合に「哲学」と位置付けられてきたと思いますが、世界哲学/世界哲学史の構想はそのこと自体を根本的に問い返して「哲学」の新たな定義も模索する運動であると理解しています。しかし、中村元の議論は確かにこの問題の中で再検討に値すると思います。ご指摘ありがとうございました。

A(小島)

「世界哲学」について。実は私も似た意見を持っています。ただこれを哲学か思想かという用語の選び方の問題として捉えてしまえばよいというのが、私の現時点での考え方です。なお、中村の議論は思想だけを特権化して語っている(社会や生活文化の問題を枠外にはずしている)ように私には感じられます。

A(納富)

「世界哲学」という呼称については、これまでもしばしば議論してきましたが、日本や中国といった非西洋圏の知的営為、さらに日常の営みや文化まで射程にいれて反省的に考察することを「哲学」と呼びます。西洋哲学で「哲学(フィロソフィー)」と呼ばれたものも当然その一部ですが、それだけではないことが重要です。他方で、もし「思想thought, idea」と呼ぶとすると、特に英語などで議論する時に、西洋哲学ではそもそも考慮に値しない劣った「考え一般」という偏見を被りますので、それを避けるための戦略があります。