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2021.01.12

話す / 離す / 花す(9)

Space to allow change

石井剛

 2018年のクリスマスのころ、わたしは奇妙な出会いの場で試されていた。いや、あれは「出会い」ではなかったのかも知れない。なぜならその後、彼との間には、少なくとも今までのところ何の関係も生じていないからだ。別れと出会いがセットになっているのだとすれば、別れるまでに関係を共にする歳月を経ていない以上、それは出会いとは呼べない、若澤さんのことばを借りれば、「出会い損ね」なのであろう。

 奇妙だと言ったのは、その彼がわたしに求めたのは、「君自身の哲学について話してほしい」という問いだったからだ。なんとかわたしがひねり出したのは、変化を可能にする仕組みとしての哲学を構想しなければならないという、およそ答えになっているとは思えないようなしどろもどろの答えで、彼は追い打ちをかけるように、「What kind of space can allow people to change the world without violence?」と聞いてきた。わたしはそこで「文」について、とくに「文」をある種の関係概念としてとらえることについて、どうにかこうにか話したが、とても要領を得ていたとは思えない。いまでも思い出すたびに脇の下をいくすじもの冷たい汗が伝っていくような緊張感を覚える。

 だが、いま改めて思い出してみると、わたしは彼の問いに対する自分なりの答えを探すかのようにその後の2年間を過ごしてきたらしい。そして、そのようなスペースがもしあるとしたら、それは大学しかないという思いがEAAと共に生きる中でほとんど確信にまで高まっている。そのような場として大学とそこで行われる学問はあり、そこで学問とは「文」にほかならない。そして、大学は「文」としての学問の場において、そこに集う人々に学問する人としてふるまわせている。

 ところで、建築家の原広司はいう。

  はじめに、閉じた空間があった————と私は発想する。この閉じた空間に孔をうがつこと、それが即ち生であり、即ち建築することである。閉じた空間は、死の空間であって、世界とのいかなる交換もなく、なにものをも媒介しない。境界は絶対的に強く、私は偶然にもほんの瞬時、境界を破ることが許された。(原広司『空間〈機能から様相へ〉』、164ページ)

 はじめに何もない絶対的な開放があるのではなく、わたしたちの世界は閉じた空間によって始まっていると原は言う。つまり、外の光や風を感じ、人々と交わることを可能にしているのは、絶対的な開放ゆえではなく、空間が境界を有していることによって隔たりが存在しているからなのだ。そうするとわたしたちは、COVID-19パンデミック下での息が詰まるような閉塞した社会との隔絶に関する理解を逆転させる必要があるのかもしれない。テレワークやオンライン授業という社交距離の確保が最優先される「新しい生活様式」の中で、わたしたちが晒されている危機は、社会からの隔絶ではなく、むしろそれとは逆の、絶対的な開放なのではないだろうか。いま社交距離確保の名目で導入されている技術は「部分なき空間、ファシズムの風景」(同書、202ページ)と原が形容した現代の超高層建築の論理を無限に拡張しようとするものにすぎないのではないか。そうであれば、わたしたちは、こういう理不尽な生活様式を迫られているからこそ、「つながる」のではなく、「離す」ことによって、始原にある閉じた空間についてもう一度思い出さなければならない。そこにおいて初めて、「境界を破る」瞬間を手にするチャンスは再び訪れるだろう。

 だから、わたしは敢えていま、離すことの意味をとらえ直し、そこから希望をやり直したいと考えている。つながるのではなく、敢えて境界を引き受けること(原広司も「境界は倫理である」と言う)、それは同時に高い密度を求めることでもある。わたしたちは、そうして生まれる密度のなかで変化を促すスペースを駆動させる必要があるのだ。そのようなスペースとしての大学は、シームレスな社会との関係を機能において追求する存在になるのではなく、そこから隔絶すべき境界を確保することによって、外の現実に対する〈反転〉的身振りを獲得する場であるだろう。だからこそ、大学は徹底して、ひたすら知的な場であり続けなければならない。知的な場であるということは、そこに集う者たちがよりよき知性を欲することを祝福されているということだ。

 わたしの手元にはいま、『東京大学 現状と課題』、通称「東大白書」の第3号があるのだが、そのなかで、当時の蓮實重彦総長がこのように述べている。

  何かを専門的に学ぶという行動の基礎を提供するのは、専門の基礎的な「知識」ではなく、専門的に学ぶという行動へと若者を駆り立てる「知性」でなければなりません。(『東京大学 現状と課題3』、19ページ)

 大学における専門教育といわゆる「教養教育」のちがいについて敢えてここでは触れない。しかし、大学が知的な場として〈反転〉的身振りを実践する場であるとすれば、それは、このような「知性」がそこにおいて育まれているからにほかならない。他のことばを使って言い換えれば、哲学こそが大学というスペースの使命であると言ってもよい。蓮實氏のために補足すると、「知性」へと駆り立てられるのは何も若者だけではないと氏は別のところで強調している。わたしたちは、境界の中に多くの人を招き入れるべきだろう。年齢、性別、国籍、信条のちがいがすべて許容されることはもとより言うまでもなく、あらゆる身分の人に開かれているべきだ。例えば、社会人もまた、いや、社会人こそ、大学というスペースに参画することが必要であると言ってもよい。大学と社会との協働が叫ばれている今だからこそ、大学は己の本来奉仕すべき役割を再度想起すべきであり、その役割とはまさに「知識」ではなく「知性」の涵養にほかならない。社会人であるとか学生であるとかいう社会上の身分の違いとは無関係に、そうした「知性」を求める人々にとっての歓待の場として大学があることは、そうした協働の呼び声に対する最も責任ある応答であると思う。くり返しになるが、ここで知性とは哲学にかかわる。知性を磨くこととは「哲学する」ことであると、哲学という営みに人間の人間たる所以を見いだしたヤスパースならきっと言うだろう。

 2021年、EAAは3年目を迎える。変化を可能にするスペースとしての大学の姿をここから示していきたいと思う。

2021年1月12日

photographed by Hana