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2021.03.23

EAAオンラインシンポジウム「一高中国人留学生と101号館の歴史」

2021年3月17日、ZoomウェビナーにてEAA国際シンポジウム「一高中国人留学生と101号館の歴史」が開催された。本シンポジウムは、教養学部創立70周年の一環としてEAAで企画された同名の展示会を記念して2020年3月21日に開催が予定されていた。しかしCOVID-19の流行拡大によって延期となり、このたび1年越しでシンポジウム開催に漕ぎつけることができた。完全オンラインでの開催となったが、多くの方から関心を寄せていただき、日中両国を中心に参加者100名を超える盛会となった。

まず石井剛氏(EAA副院長)司会のもと、太田邦史氏(東京大学)が開会の辞を述べた。太田氏は、旧制第一高等学校(以下「一高」)における教養教育が、現在の東京大学教養学部における教育の礎となっていることを指摘しつつ、個人的な明寮(駒場寮のなかの一棟)の思い出なども含めながら開会の辞を締めくくった。

太田邦史氏(東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長)

 

中島隆博氏(EAA院長)による挨拶の後、報告者の宇野瑞木(EAA特任研究員)が開催趣旨を説明した。EAA駒場オフィスがある101号館は、一高時代、中国人留学生に向けて教育が行われた「特設高等科」の講義棟であった。EAAでは101号館の歴史をふまえて、2019年3月に「一高プロジェクト」を立ち上げた。そして「藤木文書」(1943-45年頃の一高留学生に関わる未整理の資料群)の整理、101号館ロビーでの展示企画を経て、COVID-19の影響下、2020年度はWEBサイト上でのコンテンツ公開を進めていった経緯を述べた。

宇野瑞木氏(EAA特任研究員)

 

その後、1990年代後半より日本において中国人留学生史研究を牽引してきた大里浩秋氏(神奈川大学)が最初の基調講演「中国人日本留学の歴史に思うこと」を行った。大里氏は、まず1960年代の自身の教養学部における学生生活で101号館や明寮に出入りしていた記憶、そして魯迅『藤野先生』をきっかけにこの分野の研究に入ったいきさつを披露した。今回の報告のために大里氏が依拠した資料は、東京大学文書館に保存されている『支那留学関係』、『留学生関係』、『留学生関係書類』である。1920年代より「対支文化事業」の一環として東京帝国大学は中国人留学生受入を行っていた。受入に際した東京帝国大学と外務省・文部省とのやりとり、1938年まで留学生向け「内地」修学旅行・研修旅行が実施されていた事実、満洲事変以後に「満洲国」留学生と「中華民国」留学生の待遇の乖離が拡大した様子を説明していった。以上の資料的事実の紹介に合わせて当時の学生についての大学側の調査記録も紹介された。大里氏の講演は、講演東京帝国大学との関係が不可分であった当時の一高の状況を解明するに際して、貴重な視座を与える内容であった。

大里浩秋氏(神奈川大学名誉教授)

 

2人目の基調講演者である汪婉氏(北京大学/東京大学)は「駒場での留学体験——東大は開かれている」と題して、1989年から1996年まで、総合文化研究科で学んだ体験を語った。中国史研究の並木頼寿氏のゼミに参加した思い出や、駒場が各国の留学生・研究生の割合の多い国際色豊かな雰囲気だったことが紹介された。そして汪氏は、駒場の学問の特徴が国際的・総合的・学際的であると述べたあと、留学生の人格形成に駒場の教員とのコミュニケーションが大きな影響を与えていたと、ご自身の体験にもとづいて指摘した。汪氏は修士論文で、京師大学堂の「師範館」における服部宇之吉らの教育活動について論じたのち、博士論文の成果を『清末中国対日教育視察の研究』(汲古書院、1998)として上梓した。以後は、中国における教育改革の内実や「国民教育」を目指して実施された学制の地方浸透などについて研究を行ってきたことを述べた。研究のバックグラウンドを示した後で、汪氏は、中国から日本への留学派遣・受入の意味が時代ごとに大きく異なってきたこと、中日両国の相互理解・相互尊重のために相互派遣が果たす現代的な役割、そして東京大学が今後、アジアにどのように向き合っていくかを提示することの重要性について問題提起を行った。質疑応答では、今日の国際語としての英語の運用について質問が上がり、留学先の言語を学ぶことの意義が議論されるなど、大学の国際化の未来像を思考する契機になる基調講演であった。

汪婉氏(北京大学国際戦略研究院理事/東京大学グローバル・アドバイザリー・ボード委員)

 

その後、休憩をはさんでパネル「特設予科・特設高等科及び当時の中国人留学生について」に移った。

最初に、韓立冬氏(北京語言大学)による「一高の中国人留学生教育の制度的変遷」と題された特別講演が行われた。「一高プロジェクト」では、「一高中国人留学生と101号館の歴史展」を開催するにあたって、韓氏の著書『近代日本的中国留学生予備教育』(北京語言大学出版社、2015)に大きく依拠しており、パネルの最初に一高特設予科・高等科の沿革についてお話しいただいた。韓氏は、一高における留学生受け入れの歴史を、(1)特設予科成立以前の中国人留学生受け入れ(1899-1921年)、(2)「五校特約」下の特設予科(1908-1922年)、(3)「対支文化事業」に組み込まれた特設予科(1923-1932年)、(4)「対支文化事業」下の特設高等科(1932-1945年)の4段階に分け、その上で各時期の日中の情勢や制度的変遷の影響下での志願者や入学者の増減、質の変化などについて検討を行った。質疑では、日本人学生と独立したクラスで3年間学ぶこととなった特設高等科において、日中学生の交流が課外活動など場でどの程度なされたのか、といったことが議論された。

韓立冬氏(北京語言大学漢語国際学部漢語学院教師)

 

続いて、4名が研究発表を行った。最初は田村隆氏(東京大学)の「狩野亨吉文書の清国留学生資料」と題した発表であった。「狩野亨吉文書」とは、明治31年から39年まで一高の校長を務めた狩野亨吉(1865-1942)が残した校務文書、書簡、日記、授業ノートなどからなる資料で、現在駒場博物館に所蔵されている。田村氏は、この「狩野亨吉文書」の調査に、2017年以来、科学研究費補助金を活用したプロジェクトにおいて継続的に取り組んできた。その成果が、昨秋に東京大学デジタルアーカイブズ構築事業の一環としてデジタル公開された「第一高等学校関係文書」と「清国留学生関係文書」である。その上で、とくに「清国留学生関係文書」を取り上げて資料の活用例を示した。注目されるのは、狩野亨吉が一高における中国人留学生の最初の受入(1899年)時の校長である点である。初めて浙江省から留学生8名を聴講生として一高に迎えた際の入学式式辞草稿には「尤モ注意シテ善隣ノ道ヲ欠クコトナカランコトヲ務メヨ」といった文言が見える。この他にも、英語の試験監督を夏目金之助(漱石)が担当していたこと、同僚には『吾輩は猫である』の「津木ピン助」のモデルとなった杉敏介がいたこと、当時の授業の時間割及び担当教員表、新築された「朶寮」が谷崎潤一郎の小説に出てくるなどの事例を紹介し、多様な同時代資料を繋ぐことによる文学研究等への活用の可能性を提示した。

田村隆氏(東京大学大学院総合文化研究科准教授)

 

2番目の発表は、薩日娜氏(上海交通大学)の「服部宇之吉と京師大学堂の留学生派遣事業」であった。同氏は、日清戦争の敗北と洋務運動への反省から「日本的教育」が清末中国の教育モデルとなったこと、そして京師大学堂が創設されるに至った経緯が説明された。京師大学堂が軌道に乗り出した1902年に「総教習」として招聘されたのが服部宇之吉(1867-1939)であった。薩日娜氏は、東京大学駒場図書館に現存する一部未公開の服部関係資料と北京大学所蔵資料を対照しながら、服部が京師大学堂で授業を担当しちち師範館正教習および総教習として師範館の管理運営全般に指導者として関わったことを明らかにした。さらに京師大学堂の留学生派遣事業を通じて日本に派遣された留学生が、帰国後に20世紀初頭の中国における理科教育の近代化に貢献したことを明らかにした。数学という学問分野の近代化について、日中両国をまたぎ双方の資料を突き合わせて明らかにする手法は、他の学術分野の近代化プロセスの解明においても応用可能であろう。また元留日学生が中心となり設立した中国数学会が、中国における欧米の科学用語の訳語を定めていたことは、欧米の思想・学問の翻訳と循環を具体的に示す事例として注目されよう。

薩日娜(上海交通大学科学史与科学文化研究院教授)

 

3番目の発表者である高原智史氏 (EAAリサーチ・アシスタント)は、「森巻吉と中国人留学生」と題し、特設高等科設立(1932年)と一高の駒場移転(1935年)の時に一高校長であった森巻吉(在任1929 -1937年)とその時代の日中学生の交流に着目した発表を行った。森と中国人留学生との関わりは古く、1904年の森の大学卒業直後にまで遡る。森は清国官費留学生の英語授業の担当として、一高での教歴をスタートさせた。その後1908 年には一高の講師、翌年に教授となり、留学生の英語教育を引き続いて担当した。以上を確認した上で、高原氏は留学生教育に多大な関心を有していた森校長の入学式式辞の草稿や、当時の茶話会に関する寮日誌の記録などから一高内部の言説を取り上げ紹介した。高原氏によれば、これらの言説からは一高生にとって何より重要視されていた寮生活の共同を通じて日中融和が可能となるとの認識が見て取れるという。一方、こうした籠城主義ともいわれるような寮生活至上主義はあくまでも日本側の価値観を提示しているに過ぎず、留学生に必ずしも共有されうる価値観ではなかった。さらに言えば一高内の言説と世論との乖離が当時生じつつあった点についても高原氏は指摘した。最後に、こうした問題を通し、エリート養成校である一高において、中国人留学生という他者を制度的に抱えたことからくる軋轢を明らかにしていくことは、近代日本における青年の思想動向を知る上でも重要な問題提起となりうると述べた。

高原智史氏(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程/EAAリサーチ・アシスタント)

 

最後の発表者である孫安石氏(神奈川大学)は、「清末から民国時期の日本留学案内書の系譜——章宗祥『日本遊学指南』を中心に」と題して発表を行った。孫氏は、中国からの日本留学がピークを迎えた20 世紀の初頭に、留学生たちが参考にした留学案内書に着目した。中でも広く読まれた章宗祥編の『日本遊学指南』を取り上げ、実はその内容の多くが明治期に発行された日本国内の東京上京者への案内書『東京遊学案内』に拠っていたという興味深い事実を明らかにした。その上で章宗祥編の『日本遊学指南』の内容を紹介し、さらに他の崇文書局編『日本留学指掌』(崇文書局、1905)や木川加一・田中亀治編『東瀛遊学指南』(日華堂、1906)等との比較を行い、中国人留学生史研究の先駆者・実藤恵秀が扱っていなかった資料も視野にいれながら、新たな知見を示した。以上の豊富な資料に基づく分析に加え、留学において人とのめぐりあわせが大事であると孫氏自身が実感されているというお話と、同じ資料でも世代が代わることで資料の見方も変わるとして新しい世代の研究への期待を示された点も印象深かった。

孫安石氏(神奈川大学教授)

 

以上の特別講演及び4名の研究発表を受け、ディスカッサントの石井剛氏(EAA副院長)、岡本拓司氏(東京大学)から、それぞれ重なりながらも、別の角度からの問題提起をもって応答がなされた。

石井氏は、まずEAAロゴマークのモチーフがもつ含意を解説しながらEAAの成立と目的について述べた。ロゴに使われた赤系統と青系統の色は北京大学と東京大学のシンボルカラーであるのみならず、中国神話における陰陽・水火といった相反するものの循環運動としての世界把握を示している。またロゴの形状は漢字文化圏の書物を象徴する意匠としての「魚尾」と、やはり漢字文化圏における学びのトポスたる書院を示していると述べた。石井氏は、これらのデザインには東アジアから新たにリベラルアーツを発信する意図が込められていると説明した。その上でEAA自体も「時代性」と共に立ち上がったことを自覚し、一高が駒場移転後に日中戦争へと突き進んでいった「時代性」と、一高の教養教育・学問との関係を「重い遺産」としてふまえながら、歴史に学んでいく必要があることを語った。

石井剛氏(EAA副院長)

岡本氏は、森巻吉の後に一高校長となった医学者の橋田邦彦を取り上げ、彼の「科学」と「日本的把握」「東洋的精神」を結びつける言説が当時の「時代性」に歓迎されたことを指摘した。橋田校長の言動に対して当時の一高生は懐疑的な反応を示した一方で、彼らのエリート意識は中国人留学生に対する差別的な眼差しを露わにするような側面を有していた。また一高の教員たちが掲げた「善隣」「友邦」という融和を促す言葉の響きには、先進国が後進国を先導するという意識があったことも鋭く指摘して、パネル発表者への応答を行った。

岡本拓司氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)

 

質疑では、科学的精神の日本的把握が戦後どのようになっていったのか、また一高における明治大正昭和を通した「科学」という用語の意味変遷について議論が行われた。さらに、当時の留学生史を考えるにあたって、従来の日中関係史という枠組みからのみならず、双方が近代的学問の手本としていた欧米を視野に入れて把握していく必要性があるという認識が共有された。また「中国人留学生」といった時の「中国」の内容も時期によって多様かつ複雑であること、「時代性」と一高教育の関係を常に批判的に検討していく視点が不可欠であることが確認された。また会場からもZoomQAに多くの質疑や資料に関する情報が寄せられ、一高のみならず、国内外の資料の広がりを改めて感じた。

議論はつきなかったが、石井氏より最後の締めの言葉として、このシンポジウム、ひいてはEAAの一高プロジェクトが、これまで多くの方々との出会いと協力があってこそ可能になったものであることを振り返り、改めて感謝の意が表され、閉会となった。

本シンポジウムの開催により、EAAが初年度から取り組んできた一高プロジェクトは1つの区切りを得た。今後ここで共有された新たな問題意識と人とのつながりを糧とし、駒場に眠る一高留学生資料の整理・公開を進めながら、より一層の共同研究の展開をめざしていきたい。

上段左側から、石井剛氏、宇野瑞木、岡本拓司氏。中段右側から、薩日娜氏、田村隆氏、汪婉氏。下段右側から、孫安石氏、高原智史氏、大里浩秋氏。

 

 報告者:髙山花子(EAA特任助教)

宇野瑞木(EAA特任研究員)