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2021.02.02

第13回 石牟礼道子を読む会

2021年2月1日(月)15:00より第13回石牟礼道子を読む会が開催された。張政遠氏(総合文化研究科)、佐藤麻貴氏(東京大学連携研究機構HMC)、宇野瑞木氏(EAA特任研究員)、宮田晃碩氏(総合文化研究科博士課程)、建部良平氏(総合文化研究科博士課程)、それから報告者の髙山花子(EAA特任助教)の6名が参加した。

今回から、当初、『苦海浄土』第4部として構想されていた『流民の都』(1973年)の読解に入った。これは、主に1970-1971年に各種媒体に発表された40本の短いテクストが収録された3部からなる本である。

石牟礼道子『流民の都』(大和書房、1973年)扉絵

発表担当者は宮田氏で、主に取り上げられた収録テクストは、「海から来る客人」(初出1970年)、「流民の都1」(初出1972年)、「流民の都2」(初出1971年)、「流民の都3」(初出1972年)、「自分を焚く」(初出1971年)である。サブテクストとしては、石牟礼道子、藤原信也『なみだふるはな』(河出書房新社、2012年)が選ばれた。

まず確認されたのは、土本典昭監督の記録映画『水俣—患者さんとその世界』(1971年公開)に関する記述である。映画に現れる胎児性水俣病患者の上村智子の一家の食卓のシーンや、ボラ漁のための餌作り、資金節約のために古典音楽が使われた経緯が記されており、また、土本監督が「人々の大群像」を映像にしようとしていたその意図を石牟礼が汲もうしていた様子が確認された。次に、宮田氏は、完成までにもっとも時間を要した『苦海浄土』第2部が雑誌『辺境』に連載されていた際に、『流民の都』が、「すでに書き終わっている第4部」と書かれていた点を振り返った。『流民の都』に収録されている「自分を焚く」が雑誌『展望』に第2部執筆と重なる時期に掲載されていたことも確認した上で、1970年代後半から2000年代にかけて、石牟礼が『流民の都』に自己言及している箇所をピックアップし、2001年度に朝日賞を受賞した際には、『苦海浄土』3部作の後には患者について書き継がなければならない、と述べていたことから、『流民の都』が第4部とはみなされなくなった流れが浮かび上がった。東日本大震災後の藤原新也との対談でも、石牟礼が「まだ命があって、第四部を書くならば、胎児性患者の方々の現在を書きたいと思います」と言っていることから、『流民の都』ではない別の書物の構想が彼女の中にはあったのである。とはいえ、『流民の都』自体にも、胎児性の患者たちについての記述があり、また特徴として、長崎や新潟、朝鮮など、水俣以外の場所が描かれる点があると明らかにした上で、最後に宮田氏が指摘したのは、夢みられる「まぼろし」としての「みやこ」が、帰るべき故郷を喪失した人々にとっては、辿り着くべき場所としても存在しえず、人々が永遠に流浪せざるを得なくなった状況と重なっていることだった。

 議論では、この「流民」がどのような人たちであり、この「都」が単なる東京のような都市名に帰着するものではないのではないか、という点について、時間をかけて意見交換がなされた。帰る場所があるという考えそのものが共同幻想にすぎないのではないか、「流民」が現代の難民にも重なり、東京という「みやこ」が「港」でもあるのではないか、といった問いかけがなされた。また、断片的に思われるテクスト群ではあるが、時代を遡る形で時系列になっているのではないか、という指摘もなされた。また1960年代の東京への地方からの人口移入といった、「流民」という語の選ばれた時代的背景も勘案する必要性が指摘された。

 宮田氏の報告でとくに印象に残ったことのひとつは、対談で藤原新也が述べた、人間の命が「悪の鑢(やすり)」によって研ぎ澄まされてゆく、という考えと石牟礼が共鳴する部分をもっていたことである。もうひとつは、『流民の都』には、『苦海浄土』第3部『天の魚』のはじめに書かれている「序詞」が変奏された形で二度挿入されているが、その「序詞」には、「生類のみやこはいずくなりや/(…)/生類の邑はすでになし」という章句があると指摘されたことである。このことで、今回の終盤でも議論の俎上に載せられた、孤独や共同体をめぐる石牟礼の模索に対して、決して美しい場であるとはかぎらず、むしろ禍々しい空虚ささえも含みもつような「みやこ」という言葉から近づいてゆくきっかけが与えられたように思う。引き続き、石牟礼自身の思い描いていた「もうひとつのこの世」に迫ることも念頭に、テクストを読み、思考したい。

報告:髙山花子(EAA特任助教)