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2021.02.01

第3回 EAAブックトーク

2020年12月22日、落ち葉の積もった冬の駒場キャンパスにて、月例の野外ブックトークが開催された。前野清太朗(EAA特任助教)・若澤佑典(EAA特任研究員)・張瀛子(EAAリサーチ・アシスタント)・建部良平(EAAリサーチ・アシスタント)の四人に加え、今回から沖縄研究・思想史を専門とする崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)が参加し、会話の輪を広げてくれた。崎濱氏のアクティヴな応答に感謝する。トーク中に張政遠氏が通りかかって、みんなで手を振ったり、立石はな氏が熱気ある現場をファインダーに収めようと活躍してくれたり、キャンパスが「遭遇の場」であることを実感した2時間となった。大学での知的交流・協働において、偶然「バッタリ」誰かと路上で出会うことは、しばしば新たな研究の始まりにつながる。キャンパスに集まり、野外で語らう本企画は、こうした「偶然/遭遇の空間」に支えられた研究の感覚を甦らせてくれる。

12月のテーマは張瀛子氏の提題によって、「注釈/コメンタリー」とあらかじめ決まっていた。11月の第2回ブックトーク時、地域を横断して18世紀の思想を眺めた際、戴震や段玉裁など、清代考証学の人々は「注釈」という形をとって、思考を展開していった。彼らは古典に注をつけることで、自らを密かに語る。注釈者の意図や状況によって、先行テクストの文言は時に読み替えられる。さらに、場合によっては文献そのものが捏造されることもあった。注釈は個別具体的な学術作業であると同時に、「いかに考えるか/語るか」という思考そのもののスタイル、そして知を「どうやって共有するか」規定する根源的な枠組みでもある。注釈行為では、厳密さ・正確さ・誠実さといった広義の倫理性が問われる一方で、先行テクストが持つ権威とどう対峙するか・利用するかといった政治性も主題となる。また、意図的誤読やテクストの偽造に見られるように、古典テクストと注釈者の関係(パワーバランス)も一筋縄ではいかない。知の枠組みを追っていく上で、各時代/地域/言語文化/個人に見られる注釈の理論と実践を見ていくことは、実に面白く奥深い。

上記のことを念頭に置きながら、司会担当の若澤からは『ユリイカ』2020年12月号特集「偽書の世界:ディオニュシオス文書、ヴォイニッチ写本から神代文字、椿井文書まで」を簡単に紹介した。また、注釈という形式はアイロニーやウィットを込めて、「遊ぶ」ことも可能だ。18世紀イギリスにおいて、ギリシャ・ラテンの古典世界と軽やかに格闘し、翻訳・創作活動を行ったアレクサンダー・ポープの『ダンシアッド』に言及した。当該書ではページをめくると詩の本文に加えて、パロディー化した注が、作者のポープによって付されている。注釈が潜在的に持つ転覆的な力、厳粛さの背後に隠れた創造性・遊び心を考える上で、面白い作品と言える。創造的誤読を考える際には、山内志朗『誤読の哲学:ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013年)も参考になりそうだ。

参加メンバーによる書籍紹介は、木下鉄矢『清代学術と言語学――古音学の思想と系譜』(勉誠出版、2016年)と村井則夫『ニーチェ――仮象の文献学』(知泉書館、2014年)の二冊を持参した建部氏から始めてもらった。後者はニーチェが「ニーチェらしいニーチェ」となる以前の文献学者としての彼へ焦点を当てた著作である。ニーチェは文献学から出発し、彼独自の哲学を展開するに至る。建部氏はこの迂遠/迂回にも映るプロセスに着目し、魯迅の知的彷徨を重ね合わせる。20世紀初頭の中国知識人たちは、文献学的な知をふまえつつも、ひたすらに「迅く/急ぐ」。迂回して急ぐ、注釈することで自己確立する、建部氏はこうした自家撞着に着目した。注釈というとどこか「古臭い」もの、現代に生きる我々の思考形態と相反するもの、としてイメージされがちだが、我々の自己省察や個に根差した思考スタイルの中にも、注釈的思考との連続性を見て取ることはできないだろうか。

続く張氏はJohn B. Henderson, Scripture, Canon and Commentary. (Princeton University Press, 2014) を紹介した。同書は儒教の経典注釈と西洋における古典注釈――ホメロス、タルムード、聖書解釈学など――を大胆に比較し「注釈すること」の背景にある人々の心性を描き出す。張氏は同書を援用しつつ、古典世界とモダンな知的空間の境界を検討した。「テクスト内部の整合性」が前提となったパラダイムを超えて、テクストがもつ矛盾を「矛盾のままに受け入れる態度」が、近代の心性なのではないかと張氏は指摘する。同じ視点から、別の議論も可能である。テクストの矛盾を受け入れる態度は、「科学的な客観性」という矛盾の包含枠を、近代世界が手に入れた帰結なのではないか、という解釈である。これを受けて、前野は大岡信『連詩の愉しみ』(岩波書店、1991年)とウルリッヒ・ベックほか著、松尾精文ほか訳『再帰的近代化――近現代における政治、伝統、美的原理』(而立書房、1997年)の2冊を紹介した。前者の紹介では、先人への注釈に内在する「自己の固有性を獲得したい」という意思、その実現に向けた戦略的な側面について触れた。後者の紹介では、ギデンズの提起する「再帰性」(reflexibility)を議論の手がかりとした。注釈行為には(注釈者の連鎖で生じる)自己参照の要素が見られつつも、自己参照の繰り返しが生む(個人を超えた)生成/創造/変化のダイナミズムがあるのではないだろうか。こうした自己注釈の営みについて、崎濱氏からは「日本らしさ」を追い求めた18世紀の薩摩藩、そしてその琉球社会とのかかわりが、ケーススタディとして提起された。

ブックトークの参加メンバーは皆、分野は違えど、日々リサーチを行う研究者である。「どう注をつけるのか?」というのは、切実さを伴ったテクニカルな問題であると同時に、「なぜ書くのか/誰に向かって書いているのか?」という根本的な部分と接続している。こうした研究者の実存性をガソリンにしつつ、トークは大いに盛り上がった。注釈性が形作る共同性が、会の終わりでフォーカスされた。これを受けて、「経済(エコノミー)と経世(けいせい)」が次回のテーマとして設定された。首都圏の感染動向を踏まえつつ、年度内での開催を準備している。

報告者:若澤佑典(EAA特任研究員)、前野清太朗(EAA特任助教)

写真撮影:立石はな(EAA駒場オフィス)