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2021.01.25

第12回 石牟礼道子を読む会

2021118日(月)15:00より、本年最初の石牟礼道子を読む会が開催された。第12回となる今回は、昨年末にCOVID-19対策のため2回に分けて鑑賞した土本典昭監督の記録映画『水俣——患者さんとその世界』(1971年公開)をめぐって、読書会全体で議論をした。参加者は、鈴木将久氏(人文社会系研究科)、張政遠氏(総合文化研究科)、佐藤麻貴氏(東京大学連携研究機構ヒューマニティーズセンター)、髙山花子氏(EAA特任助教)、宮田晃碩氏(総合文化研究科博士課程)、建部良平氏(EAAリサーチ・アシスタント)、そして報告者の宇野瑞木(EAA特任研究員)の7名であった。

既に、各鑑賞会において議論されたことがブログ報告(第10回第11回)にて共有されており、それを踏まえた上で、各自改めて映画を思い出しながら印象的なシーンや気が付いたことなどを述べていった。

映画の前半部分では、水俣病を患いながらも、或いは水俣病患者を家族に抱えながら生活をする複数の患者家族の日常が映し出されていく。家族で食卓を囲んで話をする風景、胎児性水俣病患者が海辺や家の内外で遊ぶ様子、漁やボラ釣りの餌を作る場面など生業にかかわるシーンが中心である。その今は穏やかに見える日常の端々に、漁師の家の男たちの屈強な肉体と細く歪んでいる子供たちの肉体の差に、かつてあった活気ある生活が忍ばれ、絶望や重苦しさというものを引きずりながら日常があることの重さが感じられた。

その中でも「食」というモチーフが多かった点が議論された。重度の胎児性水俣患者の子供は話すことも聞くこともできないが、家族の食卓でともに食べることで、同じ生きている存在であることを証明しており、さらには魚・生き物の命をもらって生きる、そうした循環する世界をも感じさせるものがあったという意見があった。一方で、ボラ釣りの餌を作る場面では、味噌などのほかに動物性の豚の脂やバターを入れるシーンがあり、水生動物の餌に陸上動物の加工品を用いる点について、漁師の家々がそれぞれ工夫を凝らし競争した状況や、当時高価であったバターを入れる発想から魚への敬意や人間への近さ、さらには海の汚染の有無や里海の環境ということまで話題になった。

同じ世界にいる、ということの意味を考えさせられるシーンとして議論されたのは、耳の聞こえない胎児性水俣病患者の弟が、耳の聞こえる兄と一緒にスピーカーに手を当てて音楽を楽しんでいた場面である。兄弟間のコミュニケーションを通して、不思議な共有の感覚というものが感じられ印象的であった。

また、被写体との距離感の近さや寄り添い方について議論される中で、土本監督が2004年に北京で受けたインタビューが参照された。土本氏が患者家族を撮影する際に困難を感じた点として、信頼関係を築くのが前提であるのは勿論だが、患者家族自身が水俣病について語ることを恥ずかしがったり、憚ったりする傾向があり、通常のドキュメンタリーのように主人公を決めることができなかった点であるという。その結果、多くの人たちを差異を感じさせないように撮る方法を採らざるを得なかった。こういった側面からは、土地独特の人間関係・社会や時代性、さらには男女観や儒教的な観念などとも切り離せない要素であることが伺われた。また九州地方が中国大陸や朝鮮半島との風俗や信仰的共通性を持っている可能性についても議論が及んだ。

後半を中心とした具体的な運動に関わる映像から読み取られたのは、『苦海浄土』の外部、とりわけ「世間」や「世論」といった面であった。例えば、街頭で水俣病犠牲者の被害を訴える患者たちに対する世間の無関心さ、冷たさというものが映し出されていたのは印象的であった。「公害戦争」という言葉とともに「高度経済成長」の裏側を糾弾する患者の叫び声は、世間一般の一丸となって発展していくという希望に満ちた時代の空気と完全に乖離していた。別の場面では「苦海浄土基金」という言葉も患者の口から飛び出し、小説が齎した現実的な影響をも生々しく伝えていた。映画の中では、患者たちの間の対話、衢の言説、メディアが広める言説、そして法的な言説など、様々な言説レベルの乖離、ズレ、ねじれといった問題が随所に感じ取られ、またそれが水俣病事件に限らない現代にも続く問題であることが議論された。

その他、水俣病が熊本県のみならず鹿児島県に跨って生じていた点や、広島原爆ドームでの巡礼など、外部の空間・問題とのつながりを考えさせられるシーンが注目された。

外部という点では、脳性まひなどの症状として扱われることもあったという胎児性水俣病患者について、そうした他の病気を抱えた子供のいる家族の在り方とかなり似通う部分があるのではないか、という指摘もあった。水俣病を外の文脈へと広げていく可能性と、またそうした問題に踏み込むことの難しさについても色々と考えさせられた。

さらに患者の氏名(固有名詞)が複数の作品で繰り返し出てくることで、水俣病事件のなかで何名かの患者が神聖化していくような現象が起きているのではないか、といった点も指摘された。

 

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今回、議論を始めた時点では、映像について言葉で語る、という行為は、小説について読後に感想を述べ合うよりも記憶が言語と直結していないため案外難しいということを感じていた。しかし終えてみると、結局予定していた時間を大幅に超過した形となった。同じ映画を見ても、それぞれが抱く印象や注目点が異なっており、指摘されることで、そのシーンを思い出し、改めて新たな解釈を見出すような興味深い場となったと思う。

土本監督には、その後の水俣病患者に関する映像作品も多数あるので、今後もこのような鑑賞会を実施して感想を述べ合うような場を持ちたいと感じた。

 

報告:宇野瑞木(EAA特任研究員)