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2022.12.07

【報告】第3回駒場哲学フォーラム

2022年10月6日(木)、駒場哲学フォーラム主催、EAAおよびUTCP共催で第3回駒場哲学フォーラムが開催された。会場は101号館のEAAセミナー室で、対面とオンラインを併用して行った。

今回は比較文学比較文化研究室のOBである森永豊氏から「自己の物語的構成」というテーマで話題提供をいただいたうえで、参加者のあいだで議論を交わした。話題提供は森永氏が準備されている論文の草稿をもとにしているが、トピックや主張、具体例などをコンパクトにまとめて提示していただき、かなり自由に議論することができた。

森永氏の問題意識は、自己の固有性と一般性を両立する仕方で説明できるような理論を考えたい、というものである。自己の「固有性」とは、私以外は「私」ではないということであり、他方「一般性」とは、誰もが「私」であるということである。どちらも自己なるものの本質的な特徴だと思われるが、少し考えただけでは相矛盾する特徴のようでもある。これに対して、「物語的自己」という概念ないし自己のナラティブ理論を手がかりにしてひとつの整合的な見方を提示したい、というのが森永氏の狙いである。

自己のナラティブ理論とは簡単にいえば、自己がなんらかの物語を生きる主人公として構成される、という見方のことである。それは理論的に言えば、ある行為が行為として成立するためにはなんらかの目的連関に組み込まれねばならず、さらにその目的連関は物語の形式で構成され、その物語的な理解のもとで行為するものこそが「自己」である、ということを意味している。しかしこのような理論に対しては、いくつかの批判が提起されうるし、実際に提起されてきた。森永氏が紹介した批判のひとつは、行為が目的連関の内に位置づけられねばならないというのは行為の成立要件として厳しすぎるのではないかというものである。例えばある行為(電車に乗るなど)がなんらかの目的をもって(大学へ行くためなど)為され、その目的がまた別の目的に従属する(授業を受けるためなど)と考えるならば、そこには最終的な目的などなく、無限に続いてしまうのではないか。そう考えると、行為が目的連関のもとに置かれ、自己とはその目的連関を物語として生きる主体であるといった理解には、どこか問題があるように思える。またもっと単純な指摘として、目的連関の外に置かれた行為もあるのではないか、ということが考えられる。気まぐれの行為や目的のない雑談、あるいは結果を見通せない創造的行為もある。これらはそれでも「自分の行為である」ことに変わりはないだろう。

こうした批判を踏まえて森永氏が提案するのは、目的連関の外に置かれた行為こそがむしろ行為者の「人となり」を構成するのではないかという考え方である。失言や創造的行為は目的連関のもとに位置づけられるものではないが、そうした自らの理解を逸脱する行為こそが、実のところ「その人らしさ」を、ひいてはその人の固有性を構成するのではないか。これは自らの理解を逸脱するものであるから、他者の存在を必要とする。他者が「この人はそういう人だ」という仕方で説明するほかないようなもの、それが自己の固有性を構成するのではないか。これが森永氏の提案である。

話題提供を受けての議論は大変盛り上がった。議論された問いは例えば、「自己を構成する物語はひとつに統一されねばならないのか」、「アガンベンによる「身振り(gesture)」の議論とも通じるところがあるか」、「物語を構成する要素は必ずしも能動的な行為ではなく、むしろ受動的な出来事でも構わないのか」、「他者による「その人らしさ」の規定は、時に危険でもあるのではないか」、「その人らしさを構成するものとして「習慣」などはどうか」、といったものである。議論は多岐にわたったが、同時に森永氏がすくい上げようとしている「自己」の現象に、一歩一歩迫っていくようでもあった。

議論を振り返って気づくのは、「物語的自己」という概念そのものが、私たちの思考を喚起する力を持っているということである。それは「自己とは何か」という問いに私たちを誘うと同時に、様々な形の「物語」に発想を広げさせる。さらには、物語を語るのは誰かといった問いも惹起する(これがおそらく、今回の森永氏の中心的な問いであった)。私自身は実のところ、今回の議論で「自己」についての理解が定まったというより、自己についての問いがより彩度を増したような感覚を抱いている。

今後も問いと思考に養分を与えるような場としてこの会が続けられればと思う。

報告:宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座 特任研究員)