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2022.08.03

【報告】第1回駒場哲学フォーラム

2022年7月28日(木)、駒場哲学フォーラム主催、EAAおよびUTCP(共生のための国際哲学研究センター)共催の第1回駒場哲学フォーラムが対面とオンラインのハイブリッドで開催された。
本フォーラムは駒場で哲学を学ぶ学生および教員をメンバーとして、「率直に問う」ことを追求するものである。哲学ないし学問にとって「問う」ことは根本的だが、いざ研究者同士の交流に身を置いてみると、それが案外希少なものであることに気づかされる。特に駆け出しの研究者としては成果発表の形式を整えることにあくせくせざるを得ず、逆に閉じられた学界にあまり馴染みすぎると、冗長なお喋りが優勢となってしまう嫌いもある。その弊を破るためには訓練が必要だが、そのための場がまた希少である。こうした問題意識から、質問する力を互いに養おうという趣旨で立ち上げられたのが本フォーラムである。
第1回となる今回は、まず國分功一郎氏から話題提供がなされた。「意識は17世紀の発明である:スピノザと近代世俗国家の問題」と題して、いかにして「意識(consciousness)」という概念が発明されてきたか、それがどのように「法」および「権利」の概念理解と関わっているか、ということを追究する内容である。ここでは複数の検討の視座が交差しており、それだけに議論も多岐にわたった。会の進行としては、國分氏による報告につづいて質疑応答がなされたのだが、ここでは各論点に関して簡単にその内容を紹介したい。
ひとつは「意識」、「意志」、「行為」、「良心」をめぐる哲学的な問題である。國分氏の報告は、スピノザの「意識」論を出発点としている。スピノザによれば、善悪の認識すなわち良心は、意識された感情にほかならない。つまり自らの快不快を離れた善悪の認識があるわけではない。このように「意識」と「良心」とをあえて一つのものとして捉えるところに國分氏は焦点を当て、両概念の由来を問いたずねるのである。この点に関して参加者からは、やはり快不快の感覚と善悪の判断は別のレベルにあると言うべきではないか、そうでないと動物にも良心があるという話になるが、それでよいのかといった問いが提示された。また善悪の判断と行為との関係を問うて、実際に快不快を覚える以前に善悪を判断して行為を選択するといったことはやはりあるのではないかといった問いが提示された。これに対して國分氏からは、スピノザの概念構成に基づく説明にあわせて、『中動態の世界』以来問題としている「純粋な意志」の神話への疑念が、ここでの議論の動機として語られた。
第二に取り上げられたのは「意識」と「良心」をめぐる概念の生成史である。英語においても “consciousness” と “conscience” という語を見れば気づくように、両者は近いところにある。それのみならず、フランス語においてはいずれも “conscience” であって同一の語が両方の意味を担っている。そして実際、 “consciousness” という語は17世紀に造語されたものであるという。ここに國分氏は概念の「発明」というべき事態を見て取る。例えばロックは個人の尊厳や個人の所有権を基礎づけるために、この「意識」という概念を必要としたのである。この点に関しては、果たして “consciousness” という語がないと「意識」という概念はないと言えるのか、また元来区別をもたなかったラテン語の語彙への逆輸入は起こらなかったのかといったことが問われた。すこし視野を広げるならば、ドイツ語においても Bewusstsein という語は新しい。また後の論点にも関わるが、 Recht という語を法や権利といった複数の意味に用いて、特に混同するわけでもなく、かつ通底する意味合いを摑んでいるように思われる。こうした語と概念との関係についての問いは様々な場面で生じてくるものと思われる。
第三に、意識と良心の区別の問題は、権利(jus)と法(lex)の区別に類比される。両者に共通しているのは、個人と社会との関係が問題になっているということである。良心(ないし法)に対して意識(ないし権利)が際立ってくる状況とは、社会的な規範に対して個人の自由が意識(!)される場面だと言えるからである。ホッブズは『リヴァイアサン』において、人々は権利(jus, right, droit, Recht)と法(lex, law, loi, Gesetz)とを混同しているが両者は区別されねばならないと指摘する。問題はこの指摘そのものというより、その指摘が必要となるほど、法と権利とが一体のものとして理解されていたという点にある。権利ないし自由はそれ自体で与えられるものとは思われておらず、あくまで社会や神の定める法の下でのみ個人の権利は実現されるという発想の伝統があった。ホッブズはそれに挑戦しようとしたのである。法と権利に関するこの観点を経由すると、意識と良心の関係についての問いには、ひとつの解釈の方向が与えられる。つまり意識と良心の区別にかかっているのは、個人の自由がいったい何に基づくのか、それは社会による限定ないし拘束を俟ってはじめて成立するものなのか、それともむしろ社会に先立ち、社会の成立の根拠となるものなのか、という論点なのである。この点に関しては次のような問いが挙げられた。この議論においては概ね “jus” が個人に、 “lex” が社会に対応させられているが、実のところ社会の側にも「公正さ(justitia)」というように “jus” の契機はあるのではないか。また自然権とか個人の自由といっても、それがまったく規範から自由であるということは考え難いのではないか。前者の問いに対してはホッブズの言う “jus” が何を指しているのかが確認され、後者の問いに対してはホッブズとスピノザの自然権についての考え方の相違が確認された。ホッブズは個人が社会に包摂されるのを「自然権の放棄」と捉えるのだが、スピノザはそうではなく、むしろある種の和解を想定するのである。
第四の論点は、スピノザにおける意識と良心の無区別を結局どう理解すればよいか、というものである。スピノザは両者が区別されうるということを理解したうえで、あえてそれをひとつの働きとして捉えているように思われる。ひとつの考え方として示されたのは、スピノザにおいて「個人」がなにか抽象的・孤立的な意識としてではなく、むしろ社会的・歴史的な全体を伴うものとして捉えられている様をここに読み取るというものである。スピノザはたしかに、規範からまったく自由な意識というものを考えないが、しかし個人がまったく社会に拘束されていると捉えるのでもない。むしろ様々に決定されながらも、その具体的に規定されたあり方を自らのものとして意識するところに、個人の自由を見て取るのである(というのはあくまで本報告執筆者の理解した限りでの要約であるが)。この、個人の「具体性」とはいったいどういうことか、何を意味するのかということも議論になった。さらに國分氏は、この問題を「国家論」の文脈で考える。つまりスピノザの議論と、中立的な意識を持った個人から成ると想定される「近代の世俗国家」とを対照したとき、スピノザの議論は後者の国家観になにか加えるところがあるのかどうか、ということである。スピノザは一方で、国家にとって信仰が不可欠であると述べており、この点はあたかも、近代の世俗国家によって乗り越えられるべきものであるかのように見える。たしかに大文字の信仰は旧いものだろう。しかし他方で、近代の世俗国家を構成する(社会契約的な)法規範だけでは、決して「無からの創造」的に自己決定するのではない具体的な個人に触れえないのではないか。良心および意識についてのスピノザの議論が、そうした具体的な個人のあり方に目を向けさせるものである限り、それが国家論に関して示唆するものもまた、具体的に規定された個人に届くような、ある意味で根源的な法規範なのではないか。そうして國分氏は、基本法や憲法といったものがそれにあたるのではないかと見定めるのである。この最後の論点に関しては、しかし憲法にも「つくる」というプロセスがあり、それをどう考えるべきなのかといった問い、また道徳が多元化ないし分裂している状況にあって、そうした「基本法」的なものはどのように考えられるのか、といった問いが提示された。これに対しては、スピノザの考える「契約」が一回限りではなくむしろ繰り返し為されるものであるといったことや、立憲主義と民主主義との相克といった論点が取り上げられた。
以上、國分氏による話題提供の主旨と、交わされた議論を紹介した。かなり國分氏の専門に立った内容ではありながら、「意識」という極めて一般的な概念に焦点を当て、かつ「国家」という大きな問題に迫るもので、議論の方向は多岐にわたった。とりわけ教員同士のやりとりも学部生とのやりとりも等しく交わされたという点が、この会の特色を表しはじめていると思われた。2時間の会を経て、なお議論は尽きなかった。
今後駒場哲学フォーラムでは、学部生も大学院生も教員も含めて、考えたいことを持ち寄り論じ合う、ということを続けていく予定である。話題提供の形式は、学会発表のようにまとまったものであるより、むしろ各人が自由に思考を広げ、かつ真剣に語り合えるものであることが望ましいだろう(一見不真面目な話題でも、真剣な議論は可能である)。また議論の形式も、質疑応答のみならず、参加者同士で語り合えるようなものも考えられる。聴講者を募るようなイベントではないが、メンバー同士で語り合うことを趣旨とする「部活」のような場として、この会が熟してゆくことを願っている。本報告から興味を持たれた方は、以下の案内からご一報をいただければ幸いである。

https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2022/05/post_243/

報告:宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座 特任研究員)