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2021.06.15

【報告】第2回EAA沖縄研究会 神里雄大『越えていく人——南米、日系の若者たちをたずねて』合評会

2021611日、第2回の「沖縄研究会」が開催された。テーマは第1回に引き続き、「沖縄からの/への移民」である。今回は20213月に刊行された『越えていく人——南米、日系の若者たちをたずねて』(亜紀書房)の著者・神里雄大氏をお迎えしての合評会を行った。

『越えていく人——南米、日系の若者たちを たずねて』著者の神里雄大氏。

神里氏は1982年にペルーにて出生し、生後間もなくからの川崎育ちである。大学在学中より劇作と演出活動を開始し、2017年講演の「バルパライソの長い坂をくだる話」では岸田國士戯曲賞を受賞されている(のち先行2作とエッセイを交えた作品集『バルパライソの長い坂をくだる話』白水社、2018年として刊行された)。

当日の会は、主催の張政遠氏(総合文化研究科)、崎濱紗奈氏(EAA特任研究員)が進行役となってすすめられ。合評会との体ではあるものの、著者ご本人をお迎えしての貴重な機会ゆえ、まずは神里氏と張氏のトークセッション「『越えていく人』のもろもろのことについて」を行っていただいた。

合評会は張政遠氏と神里氏の和やかな対談からスタートした。

セッションは張氏からのコメントと神里氏からの応答を主軸にはじめられた。話の切り口は、張氏が体験し神里氏も関連する劇作を行ってきた「東日本大震災」であった。2011年頃は、神里氏にとってアルバイトをせずとも劇作で身を立てられるようになった時期、東京にすべてがあるという認識を持つようになっていた時期であったという。震災はそうした価値観から「東京のお客さん」以外を組み込んだ劇作をする転機でもあった。2011年の震災を通して感じた各種の無自覚——東京主義、移民、自意識——を結実させたのが初の国外(台北)公演作「レッドと黒の膨張する半球体」(中国語タイトル:放屁蟲)だった。同作は2016年に香港でも公演がなされ、公演の機会を通じて張氏との交わりも生まれた。

話題が広がるなかで、張氏からいくつか質問がなされた。第1は、オキナワ/沖縄についてである。大宜味村の訪問写真を交えつつ沖縄について語ってもらいながら、神里氏が幼い頃からたびたび訪ねていたはずの母方の実家・札幌の「故郷」感が消えていく一方で、沖縄を「故郷にしていっている」感覚もあることについて話してくれた。

神里氏が南米を訪ねる前に訪れたのは、漢字の(現)沖縄であったが、南米各地では括弧つきの「オキナワ」を訪れることになった。このうち本書において特に印象的な「ボリビアのオキナワ」について特に深く話してもらった。「ボリビアのオキナワ」は「沖縄ではないバージョンのオキナワ」(本書p.227)であり、訪ねてみた感覚としては存外に(現)沖縄的ではない「オキナワ」であった印象が大きかったという。そうした(現)沖縄と異なるオキナワをみていくなかで、神里氏は「ウチナーグチ」に代表される「ことばのありのままの保存」にこだわることでむしろ漏れてしまうものがあるのではないか、との感覚を持つようになっていった。すなわち、「ことば」はあくまでコミュニケーションツールであって、「ことば」と「ことば」の使い手の生きる文化・身体・慣習との交わりのずれから新しく生まれる面白味があるのではないか、と劇作家として思えるようになったのだという。

2の張氏からの質問は移民と「故郷」についてだった。『新潮』掲載の小説「亡命球児」(20138月号)のなかで描かれた、亡命元で「亡命書類」を書き人々が申請のための長蛇の列を作っている、というアイロニカルな小説中のシーン(通常は亡命先で書くはずであるから)を引いて、神里氏の考える「亡命」のモチーフについて質問がなされた。神里氏は、それは震災直後の今ある場所から離れた「かった」という当時の自身のイメージの反映ではなかったか、と話した。改めて考えてみれば、それは逃げた先の苦労の想定なしに今ここから離れたい、との心境であって、現在はやや異なる考えであるという。2013年当時は震災が全てを変えた出来事のように思っていたが、それは変化の最後のスイッチであって、現在は東京の今ここ、にあることも受け入れていると話した。

最後の第3の質問は「血」についてである。現在なお「気にしだすとイラッとする」処理できなさを神里氏は語ってくれた。一方で、「ぼくは血のことを聞かれるのが嫌だった。でも本当は血のことを聞かれるのが嫌ではなくて、その質問が自分の体内の歴史を否定されてでもいるように、感じる」(本書p.301)と「○○人よりもまず自分は地球人、みたいな言い方があるが、どこで育ち、どの言語を獲得し、どの地域・国の意識や価値観を元にするかで、その人を形成する要素は違ってくる。…世代を追うごとに彼らの「日本人としての意識」はその範囲が広がっていき、同時に我々「日本人」の鏡となっていく気がする。」(本書p.292)とあるような並立があるのではないか、とトークセッションは一旦結ばれた。

フロアとの意見交換はトークセッションと連続して行われた。やはりセッションで1つの焦点になった血や自意識の問題について多く意見が交わされたもののように思う。立石はな氏(EAA特任研究員)は自身のアメリカ渡航直後の経験——アメリカからカナダへの移動の途中、白人系夫妻がアジア系の子供について「養子なんだ」とフランクに話していた光景——に受けた衝撃を語ってくれた。立石氏は「血がつながらない」ことは隠さなくてはならないものなのか?、と疑問を抱いたという。神里氏からは南米・欧州にあって体験したより露骨な形での「血」にまつわる差別を挙げつつ、南米・欧州にあって「血がつながらないこと」が日本より受け入れられているとは思わないが、家族(イエ)に対する考え方を改めて捉えなおしてみる意義についての応答があった。

「血」をめぐって思い出さざるをえないのは、すでに十年以上の前のことになるが、報告者が台湾の地方の町の老人会を継続的に訪ねていたころの記憶である。あのころまだ多くの「国語家庭」(家庭内での日本語使用を奨励する運動)の子弟の方々が生きていた。ほとんどの方が鬼籍に入られてしまったけれども、古風ながら流麗な日本語を話し、俳句を嗜み日本歌謡に涙を流す彼・彼女らは私よりも濃厚な日本人性を持っていた。ごく小さいコミュニティであったから、その中では日本姓を使う人もいた。「血」かアイデンティティかをめぐる議論は古い議論であるが、そのいずれか、を突き詰めることには残酷さを伴う。

田中有紀氏(東洋文化研究所)は「ことば」に関連して思い出した感覚として、二つの言語的身体をもてることに過去抱いていた「あこがれ」について語ってくれた。中国語を教え・学びながら多元的ルーツをもつ人々と出会い、当事者からはその多重性ゆえの苦悶はたしかに耳にするのだが、日本語的なベースで中国語を、中国語的なベースで日本語を行き来できるありかたに「あこがれ」をやはり感じてしまうのだ、という。理解できるどちらの言語でも「完全に表現できない」との感覚は往々に苦しみ(ダブル・リミテッド)となりがちであるが、それを神里氏が伝えるずれから新しく生まれる「面白味」ととらえなおしていくことも可能なのではないか。最後に、進行の崎濱氏から、さまざまな文脈が結び付けられた「ことば」を各々自身の意思によって結びなおすことで開かれる可能性について、それにより神里氏の著書でも触れられている「日本語をひらく」ことについての展望が述べられ散会となった。

報告者:前野清太朗(EAA特任助教)