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2021.04.02

「痛みの研究会」第9回研究会

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 2021年3月21日、第9回「痛みの研究会」がオンラインで開催された。2017年に発足した本研究会は、人文学で近年注目を集める「痛み」という問題系に、文学、歴史学、宗教学などの観点から分野横断的に取り組むことを目指している。本研究会は西欧地域を対象とする研究者を中心に発足したが、近年はその視野を北米及び東アジアにも広げており、前回の研究会からEAAとの共催企画を行っている(第8回研究会の様子については本ブログに掲載された報告「痛みの研究会」第8回研究会を参照されたい)。

 第9回研究会は前回と同じく2部構成で進められた。研究会代表の南谷奉良氏(日本工業大学)による挨拶のあと、前半部では南谷氏による報告、後半部ではゲストの高野泰志氏(九州大学)による講演がなされた。アメリカ文学者の高野氏は、自然主義作家フランク・ノリス(1870-1920)の『マクティーグ——サンフランシスコの物語』(1899年)の翻訳を2019年に幻戯書房から出版しているほか、同書における「痛み」というモチーフの重要性を指摘した著書や論文を発表している。そこで今回、本研究会での講演を特別に依頼させていただくことになった。

 南谷氏の報告「未踏の雪原のフィールド——痛みを表現する障壁と困難について」は、具体的な文学作品に触れながら、日本でまだ広く知られていない「痛み」という主題の論点を参加者と共有することを目的とし、特に痛みの表現・共有不可能性の問題を紹介した。初めにエレイン・スカリーの先駆的研究『痛みのなかの身体——破壊と創造』(1985年)における有名な命題「痛みは言語を破壊する」を参照し、続けてヴァージニア・ウルフ(1882-1941)のエッセイ「病いであること」、アルフォンス・ドーデ(1840-1897)の死後出版の断片「痛みの国で」(1930)、エミリー・ディキンソン(1830-1886)の詩「痛みは空白の要素をもっている」の作品分析を行い、痛みを表現する独特の困難を例示した。

 痛みには表現・共有不可能性が取り憑いているにもかかわらず、あるいは取り憑いているからこそ、作家たちは「痛み」を表現し共有しようとしてきた。南谷氏が注目したのは、痛みの文学表象における白さのイメージである。実際、ウルフは「雪原」、ドーデは「空虚」、ディキンソンは「空白」として、それを表現してきた。かれらにとって「痛み」とは、主体の言葉や他者の同情を逃れ去り、ある経験が漂白されてしまう現実と対峙することであり、他者と孤絶した自身の存在を問うことである。痛みを書くこととは、そうした白さの上に何か書くことであり、また痛みの研究に求められるのは、その「白さ」そのものの質を問うことだという。

 南谷氏はさらに、現代の東アジアにおける痛みの文学表象にも言及した。取り上げられたのは、韓江(ハン・ガン)氏の『回復する人間』(原著2013年;翻訳2019年)に収められた中編「火とかげ」と、宇佐美りん氏の小説『推し、燃ゆ』(2020年)の二作である。南谷氏は、両作品は対象への没入による「充満」と、それを失う「空虚」のリアリティーを対照的に描き出す点が共通しているとした上で、その「充満と空虚の詩学」の中心に痛みがあることを指摘した。

 高野氏による講演「痛みの共感と麻酔——『マクティーグ』を中心に」は、このノリスの作品における「痛みの共感」の描かれ方に、「情動(アフェクト)理論」を用いてアプローチすることを目的としていた。高野氏がはじめに注意を促したのは、痛み、共感、芸術が本来不可分の関係におかれていることである。語源的にも、共感は苦痛の共有に由来し、麻酔は美学と関係している。高野氏はこうした観点から、「痛みの表象はその作家の芸術論として読むことができるのではないか」という仮説を議論の出発点として提示した。

 現代的な意味での「痛み」はいつ誕生したのだろうか。高野氏によれば、それは痛みをなくす可能性が生まれた時代、麻酔が発明された19世紀半ばに遡る。麻酔薬はたしかに古代から存在していたが、医学によって組織的に用いられるようになったのは、デイヴィド・モリスが『痛みの文化史』(1986年)で指摘したように、「エーテル・デー」と呼ばれる1846年10月16日以降のことである。現代的な意味での痛みへの感受性が生まれたのは、この麻酔の近代的発明によって痛みを取り除く可能性が生まれてからのことだという。

 現代的な意味での「痛み」の正体とは何なのだろうか。高野氏によれば、この問題に大きな示唆を与えてくれるのは、心理学者シルヴァン・トムキンズの「情動理論」である。トムキンズは食欲や性欲などの生理的「衝動(ドライヴ)」よりも、恐怖や興奮などの感情的「情動」のほうが人間の行動の動機付けとして重要であると主張した。この理論は痛みにも適用することができるという。痛みはたしかに外的刺激が引き起こす生理的「衝動」によりもたらされるが、それを感じる程度は主体の心理的「情動」により大きく左右されるのである。

 エドガー・アラン・ポー(1809-1849)の『ベレニス』(1835年)と、ハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウ(1811-1896)の『アンクル・トムの小屋』(1853年)を比較すれば、こうした痛みの現代的で情動的な性格がわかる。麻酔発明以前の前者では、仮死状態のベレニスから歯を引き抜く場面があるにもかかわらず、その痛みが描かれていない。これは痛みへの感受性の低さを物語る。反対に、麻酔発明以後の後者では、黒人奴隷のトムが鞭打たれる場面があり、読者はトムの痛みに感情移入することが求められる。

 高野氏によれば、『マクティーグ』も情動理論を用いて読み解くことができる。この理論では、感情は表情や振舞いを通して他人に伝播するとされる。この「模倣的伝染(ミメティック・コミュニケーション)」はたしかに作品の随所に描かれている。だが、『マクティーグ』の最大の特徴は読者に対する「共感の拒否」であると高野氏は主張する。例えば主人公マクティーグが妻トリナに初めて暴力を振るう場面では、読者はトリナに対する同情を誘われるはずだが、直後にトリナの異常な金銭欲を示す場面が描かれており、読者はうまく共感できない仕組みになっている。

 登場人物同士の「模倣的伝染」も読者の共感を拒否するように描かれている。例えば、作品の後半ではトリナがマクティーグのサディスティックな怒りに共感し、家庭内暴力を振るわれることにマゾヒスティックな悦びを感じている。ここで描かれているのは、被害者が加害者に向ける倒錯的な共感である。それまでの感傷小説やリアリズム小説において、共感は無批判に美しいものとされていたが、高野氏の結論によれば、ノリスは暴力を肯定する醜い共感を描くことで、そうした既存の文学的前提を拒絶しようとしたのである。

 高野氏の講演後には、南谷氏によるコメントに加え、会場との質疑応答がなされた。南谷氏は、痛み研究における感情史的観点の重要性を再確認したあと、ノリスの作品におけるマクティーグとトリナ以外の登場人物間の共感はいかに分析できるのかという問いを投げかけた。質疑応答の時間には参加者との濃密なやりとりがなされた。例えば、研究会メンバーの小川公代氏(上智大学)はイギリス文学との比較の観点から、進化論が流行していた19世紀、アメリカ文学では「退行(デジェネラシー)論」がどれほど共有されていたのかと問いかけた。

 以上の報告からは、痛み研究が複数の方法論に開かれていることがわかる。南谷氏の報告と高野氏の講演は、二つの異なる仕方で「痛み」という問題に切り込んでいた。南谷氏が採用したのは、文学作品の内在的読解によって痛みの個人的体験を「理解」するアプローチである。これに対し、高野氏が採用したのは、情動理論を用いた外在的分析によって痛みの集合的共有を「説明」するアプローチである。「痛み」というテウメソスの狐は、こうした複数の方法論が交差するところでしか、捕まえることができないように思われる。

報告者田中浩喜東京大学大学院博士課程)・南谷奉良(日本工業大学)