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2023.02.24

【報告】フレデリック・プイヨード氏講演会 "Sur l'art documentaire. Des Représentations factuelles au Réal-viscéralisme"

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2023年2月21日(火)16時より美学研究者フレデリック・プイヨード氏(エクス=マルセイユ大学)の講演会”Sur l’art documentaire. Des Représentations factuelles au Réal-viscéralisme”(「ドキュメンタリー芸術について:事実表象から現実的臓腑主義へ」)が開かれた。先週に引き続き(1回報告)、EAAでの招聘期間中、2回目のセッションにあたる今回は、プイヨード氏の2作目の単著『事実表象』(Représentations factuelles. Art et pratiques documentaires, Cerf, 2020)を起点にして、写真、映画、小説、ルポルタージュといったジャンルや作家、作品を縦横無尽に渉猟しドキュメンタリー概念をめぐって蓄積した成果を踏まえ、現在、着目をしている「現実的臓腑主義(Réal-viscéralisme)」に対する関心へと橋渡しする内容だった。

プイヨード氏は、1941年から2014年までの事例を時系列に紹介し、「ドキュメンタリー」概念が拡張されたことを整理したうえで、それが表象であり、ノンフィクション表象であり、証言・登録・記録を使用するという3つの特徴を、サールをはじめとするフィクション理論を援用しながら提示した。その後、メキシコの1970年代の前衛詩運動を牽引したチリ人作家ロベルト・ボラーニョ(Roberto Bolaño, 1953-2002)による現実主義と臓腑主義/内臓主義への言及が紹介された。おおもとにあったのは、ボラーニョ自身が明確な説明をあたえずに書き記した「現実的臓腑主義(Réal-viscéralisme)」という言葉が、たえまなく居心地のわるい事実と感情の結合をしめしているのではないかという氏の考えである。最後、スクリーンに投影されるイスラエルの映像を背景にひとりの男が叫びもだえるコンテンポラリーダンス、Arkadi Zaides « Archive » (2014)が議論と結びつく実例としてしめされた。理論と実践の双方について、時代を絞りつつも2010年代にまで目配せをするバランス感覚を共有する示唆的なレクチャーだった。

レスポンダントは広義のフィクションをめぐる思想史に造詣の深い森元庸介氏(東京大学)がつとめた。森元氏からの質問は、『事実表象』出版以後に、プイヨード氏の思考がどうしてそこまで悲観主義的になったのか、世界に対する信が揺らいだものになったのか、その変化の理由を問うものだった。それを受けて金融危機以後の諸問題が応答されたあと、さらに森元氏はドキュメンタリー的な舞台のいっそう公共的な喚起の力をとおしてたとえば観客もみな共に責任をもつことできるのだとしても、そこには共感主義のリスクがありはしないかと問いかけた。また、基本的に劇場に行くのは楽しみがあることを踏まえて、現在の世界の悲惨さから脱出するための芸術の役割について問いかけがなされた。フロアからは、ルワンダのジェノサイドでラジオが利用されたことを受けて作られたMilo Rauの”HATE RADIO”をめぐって作品の自律と他律を問う声や、ドゥルーズの偽なるものの力能といった考えからすればフィクションとノンフィクションの区別よりもfabulation(仮構)が重要になるといった意見が出され議論は白熱した。

おりしも駒場では、1994年のルワンダでのジェネサイドについて、「ルワンダ:記憶の義務によって書く(Rwanda : écrire par devoir de mémoire)」というプロジェクトに参加し『神(イマーナ)の影』を記した作家ヴェロニク・タジョ氏の来日講演が近日予定されている(Cf. Véronique Tadjo, L’Ombre d’Imana. Voyages jusqu’au bout du Rwanda, Actes Sud, 2000)。当日も話題になったが、3.11以後にドキュメンタリーがとりわけ映像の領域で記憶と忘却と証言とアーカイブと結ばれて係争化されているのは言うまでもない。これを書いているいま、モデレーターだったわたしは、濱口竜介による東北のドキュメンタリー(とそれにかんする被災者に対する演出)や『ドンバース』(Donbass, 2016)をはじめとするアンヌ=ロール・ボネルの作品群を関連事例として思い浮かべている。

ドキュメンタリー的なものが広義のフィクションと区別されるのだとして、それではいったいそれは誰に向けられているのか? 必ずしも負の遺産にかぎられないドキュメンタリー作品をさらに探求する視座は、おそらくディスカッションの際に提示された生(なま)の劇場鑑賞の楽しみ(plaisir)そのものの性格を精査することでさらなる言語化が進むようにわたしには思われた。今回のセッションの使用言語はフランス語であったが、学生から一般参加者まで20名が集まり盛況だった。

報告:髙山花子(EAA特任助教)
写真:齊藤颯人