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2021.06.15

【報告】新作能「沖宮」視察——石牟礼道子原作の能舞台を見て

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2021年6月12日(土)、京都市内の金剛能楽堂で開催された石牟礼道子原作の新作能「沖宮」夜公演を視察した。「沖宮」は、染織家の志村ふくみ氏が2011年以降に石牟礼道子と交流する中で生まれた作品である。東京大学東アジア藝文書院(EAA)の石牟礼道子を読む会では、今年度に入ってからは、『苦海浄土』以外の石牟礼のテクストにもとづく参加者の自由発表を進めるいっぽうで、中近世文学や説話表象を専門とする宇野瑞木氏の導きのもと、浄瑠璃のような語り物をはじめとする古典芸能と石牟礼の関係を探りつづけている。先月には、「不知火」のDVD観賞会を行い、原作がどのような謡曲に仕立てられたのか、高橋悠介氏と倉持良子氏によるレクチャーを受けた。兵藤裕己氏による、最後の琵琶法師、山鹿良之の記録映像の解説・観賞会を控えたタイミングで、じっさいの舞台を見るチャンスが得られたのはありがたかった。

「沖宮」は、島原の乱のあと、干ばつのつづく天草で、雨乞いのために、龍神に少女あやが人身御供として捧げられる物語である。『石牟礼道子全集・不知火』第16巻収録の台本との異同や、初演時に「竜神」を登場させたのとは異なり、新しく「大妣君」という役が導入され、この存在が天草四郎とあやを海底に連れゆく設定になった翻案のプロセスは、石牟礼のテクストを詞章に変えてゆくプロセス同様、そのつど作品がどのように更新されてゆくのか、その動きをもっと詳細に知りたいと思わされた。だが、舞台を見、もっとも感じられたのは、すぐそこの舞台上の動きが、舞のときの衣装の動きや光の照り返しの変化で、こちらに風のように伝わってくる感覚だった。そして、この「沖宮」が、どんなに陰影の美しさを湛えていても、この世のむごさと犠牲の物語である残酷さであった。舞台の途中で、緋色の長絹「紅扇」に着替えたあやは、能面こそしていないが、天草四郎や大妣君とおなじく艶めく衣装を纏うことで、異界のものになりつつあることが視覚的にはっきりと伝わってきた。座席数が半減された能楽堂で、生死のあわいを観客は垣間見た。彼女らが舞台から去り、姿が見えなくなった先でも、彼女らが沖宮への道を進んでいることが思われた。

前奏曲としてフランクの「アヴェ・マリア」とともに、石牟礼道子作詞、佐藤岳晶作曲の「黒髪」と「アニマの鳥」が歌われたことからも、石牟礼の言葉は、小説に限定されない文学の可能性を差し出していることが痛感された。世界文学をもっと柔軟にいくつもの角度から考えたい、と素朴に思わされた。そのために、昨年、どのように石牟礼の言葉を繰り返せるのか、という問いが浮上したことを改めて思い返している。東京に戻ってから反芻しているのは、はじめの挨拶で、実行委員長代表の志村昌司氏が、ひごろの機織りの仕事について、心の原風景を織っている、と述べていたことである。それは、心の原風景のコピーをつくるのということではまったくなく、原風景そのものとして布を織り上げる、ということだったと思う。『椿の海の記』に描かれている機織りの音を思い返しながら、声的な意味でも文字的な意味でもテクストを編む一学徒として、これからどんなことができるだろうか、と考えている。当日の上演DVDを後日入手次第、石牟礼道子を読む会のメンバーで、鑑賞し、議論する機会を必ず設けたい。

報告・写真:髙山花子(EAA特任助教)