2021年7月13日、藤木文書アーカイヴのメンバーは、昭和23年(1948)に一高に入学され、学制改革で翌年東京大学教養学部に改めて入学された工藤康氏を鎌倉のお住まいを訪ね、インタビューを実施した。工藤氏はすでに2回のワクチン接種を終えられ、インタビューをする側も感染対策を徹底して臨んだ。直接お話を伺ったのは、宇野瑞木氏(EAA特任助教)と小手川将氏(EAAリサーチア・シスタント)と報告者(高原智史)の3名で、その他に日隈脩一郎氏、横山雄大氏(ともにEAAリサーチ・アシスタント)および宋舒揚氏(東京大学大学院博士課程研究生)もオンラインで参加した。
現在に至るまで寮歌を歌う会「玉杯会」の世話役をなさっている工藤氏は、一高同窓会の広報をひきつぐ「玉杯会便り」のブログも運営なさっている。インタビューはこの寮歌の話題から始められた。東アジア藝文書院の「藝文」とは何によるか、ということから、第二十回紀念祭寄贈歌(明治43年)「藝文の花」に話が及び、そこから、公募により寮歌が毎年作られるプロセスについて説明がなされた。
一高寮歌は、中学生などの憧れの的だったと言われるが、工藤氏の談によると、明治の頃は、一高で寮歌が作られると、町に広がり、いわゆる女中さんなどがそれを聞きつけて子どもに聞かせ、「いずれは坊ちゃんも歌うのですよ」と言い聞かせたのだという。
卒業後の一高卒業生のプライベートな集まりでは、必ず寮歌を歌ったという。特に、「嗚呼玉杯」(第十二回紀念祭東寮寮歌、明治35年)は特別で、右回りしながら二唱し、それが済めば会はお開きというお約束だった。工藤氏は、第四十九回紀念祭寮歌「光ほのかに」(昭和14年)が特にお好きだとのことである。
在学中、弥生道(銀杏並木)を散歩するのが好きだったと言われ、学生数もずっと少ない当時、弥生道にはほとんど人がおらず、今とは違う独特な雰囲気があったという。
冒頭の記述の通り、工藤氏は昭和23年に一高に入学され、24年に一年次修了で東京大学教養学部に進まれたが、24卒と書くと、24年に三年生まで了えた人と紛らわしいため、26年卒業相当ということで、「昭和26理甲三」という年次表記になると説明された。過渡期の複雑な制度のありようがうかがわれる。理甲三というのは、理科の理工系で第二外国語がフランス語のクラスであった。
旧制高校には、中学を早く了えて若くして入学する人がいる一方、社会に出てから入ってくる年長の生徒、なかには30を超えて入ってくる「オンケル」(独語でおじさん)もいたといい、高等学校における生徒の年齢分布の多様性が言われた。
工藤氏は、中学四年修了の後、一高の一年生になったが、同級で中学五年となった人はその先、新制高校三年生となり、さらに大学で合流することとなったという。一高での一年と、教養学部での一年目はほとんど教授内容が同じだったという。このあたりも、制度の複雑さを十分にうかがわせる。これに関した思い出として、微分積分学は中学五年で教わるが、高校入試で出る、だから中学四年生で独学したという。その後、微積は一高でも習ったし、教養学部でも同じく習い、重なっていたという。
一高の入試についても触れられ、選抜は点数によってザルで掬うのではなくて、粒選りなのだと言われていたという。つまり、ただ点数で振り分けるのでなく、答案にあらわれた考え方などまで見られたうえで、教官会議も開かれ、選抜はなされていたのである。また教養学部への入学試験で苦労したのは、新制高校で実施されていた社会科などの科目への対応であった。
寮の部屋割りは部活動単位によるものが多く、工藤氏はサッカー部で、中寮19,20番だった。サッカー部にはインドネシアからの留学生がいたことを覚えているというが、部屋は別だったとのことである。
フランス語の授業については、川口篤、市原豊太、前田陽一といった教官の名を挙げながら、週18時間にも及ぶ多くの時間数があったこと、文法の授業は早々に終わって、すぐに原書を読んだこと、理科でも、日本語の教科書は少なく、数学はフランスが進んでいたので、フランスの数学者のポアンカレ(1854-1912)など、フランス語で数学を学んだことを語られた。
戦後の寮生活について、工藤氏の時代は、食糧がなくなれば休校していた数年前に比べれば、食糧事情も改善していたが、やはり厳しいものもあり、部活動でサツマイモの栽培もしたという。外の飲食店で使える外食券というものが配られたそうだが、工藤氏はもらわなかったとのことである。
現在の101号館は「特高館」と呼ばれ、教務課が入っていたと記憶されているとのこと。また、寮から教室へ行くのに特高館や地下道はよく通っていたという。試験の成績表も特高館に貼りだされたという。その順位で負担額が決まる(首席は最も多く出資する)番付コンパという話も出た。
駒場キャンパスについてよく覚えていることとして興味深かったのは、校外に出て帰校したとき、「ああ、俺の住み家へ帰ってきた」という感覚が強くあったという点である。その感覚は、自宅よりも強かったという。
寮内での生活について、一部屋に十二人、共同生活を謳歌したが、中には、プライヴァシーを重視して、オフシーズンに入ると自分のベッドの周りを手製のカーテンで囲い、その中に閉じこもる者もいた。そうした共同生活の中で、同級生や先輩との間で、文理の垣根も越えて、勉強の情報交換や交流が行われた。
一高の終焉については、三年生までいたわけでなく、一年次修了までしか一高にはいなかったので、一高終焉への感慨は強くないという。同級には、寮歌祭に出てくる人も少ない。一級上の先輩曰く、一高に入ったら廃止反対の声が渦巻いていると思ったら、そんなことはまったくなかったことに拍子抜けしたという。
ここで少し休憩したあと、インタビューを続けた。
旧制高校の教育は高等普通教育とも教養教育とも言われるが、どのようだったかお尋ねすると、一高には、「一年生は盲従せよ、二年生は考えよ、三年生は改めよ」という格言があり、未熟な16才で一高生活に飛び込んだ時分は無我夢中で過ごし、考え改める時間に恵まれず、その辺りには思いが至らなかった、という。卒業して振り返ってみるときに、その教育の特質や有難さが分かってきたとされた。
戦後すぐの教養学部では一高出身者は、居心地の悪い面もあったという。というのは、他の高校が教養学部に合流しており、一学年400人の一高生は教養学部3000人の中では少数派となってしまったからである。一高(だけ)の寮歌は、東大の歌ではないということで、歌いづらくなった。他の高校からの一高への対抗意識はずいぶんと強かったとのことである。
最後に、若い世代に伝えたいことをうかがった。寮の共同生活において、プライヴァシーは制限されながらも、本音で語り合うことから人間形成がなされるということを強調された。それは今日の、文理横断のリベラルアーツというのとはまた少し違った形での人間形成だと言われた。フランス国旗にあらわれている自由、平等、友愛に言及し、対立しうる自由平等を両立させるために友愛が必要とされるのだとおっしゃった。そして理屈だけでは解決できない問題を解決するためにリベラルアーツが必要なのだとされた。リーダーの育成のためにリベラルアーツが必要であり、それがあって初めて、心服されるリーダーが育つとされた。東アジアからリベラルアーツを考えるEAAにとっても印象深い話の終わりであった。
改めまして、このコロナ禍の中で、ご自宅でのインタビューに快く応じ、またあたたかく迎えてくださった工藤康様およびご夫人に心より御礼申し上げます。
報告者:高原智史(EAAリサーチ・アシスタント)