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2022.02.04

【報告】第30回石牟礼道子を読む会

2022年2月2日(水)15時より、第30回石牟礼道子を読む会がZoom上で開催された。今回の発表担当者は、現在、青山学院大学に留学中のサラ・ニューサム氏(カリフォルニア大学大学院博士課程)である。ほかに、宇野瑞木氏(EAA特任助教)、佐藤麻貴氏(EAA特任准教授)、宮田晃碩氏(東京大学大学院博士課程)、池島香輝氏(東京大学大学院博士課程)、徐嘉熠氏(清華大学大学院博士課程)、報告者の髙山花子(EAA特任助教)が参加した。

 

ニューサム氏は、”Nondualism and Agential Realism in the Works of Setouchi Jakuchō and Ishimure Michiko”(「瀬戸内寂聴と石牟礼道子作品における不二(非二元論)とエージェンシー的現実主義」)と題して、瀬戸内寂聴(1922-2012)の小説『花に問え』(1992)と石牟礼道子(1927-2018)の小説『天湖』(1997)に見られる不二/非二元論の思想について英語発表を行った。

 

 

作品分析の前にまず参照されたのは、一遍上人の思想である。次に理論的に依拠する概念として、カレン・バラッド(1956-)のagentical realismが紹介された。ニューサム氏によると、バラッドの認識論は、仏教の無我に類似しているという。瀬戸内寂聴による感覚と仏性の認識についての指南にも言及した後で、具体的には、たとえば『花に問え』において、主人公の女の愛人であったとして回想される、晩年に一遍聖絵の模写をつづけていた修復師の亮介が一遍の想いを大地から感じる場面や、『天湖』において登場人物の克平が手術の最中にみずからがしだれ桜になったと感じる場面が、不二のあらわれとして取り上げられた。

 

瀬戸内寂聴と石牟礼道子の関係については、これまで何度か話題にのぼっていたため、今回、このように両者の作品を突き合わせるかたちで、仏教的な要素の描写や叙述の構造について比較しながら、議論できた意義は大きかったと思う。

 

質疑応答では、生命のないとされる人工物と仏性の関係、和辻哲郎の「無」、バラッドの理論そのものの文学研究での応用状況、仏教の宗派による身体をめぐる思想の異同、性愛描写の目立つ寂聴と石牟礼の差異など、日本語と英語が混ざる形で、とめどなく意見交換がなされた。個人的には、おなじく『梁塵秘抄』や中世を題材に創作をしながら、今様のような庶民的なほうにおりてゆく傾向が強い石牟礼に対して、寂聴が絵図のように権力と結びついた表象装置を主題にしているという違いが浮かび上がってきたことがおもしろかった。そして、それではどのようにして、人間と人間でないもの、現在にあるものと現在にないものとのあわいが結ばれる契機が生まれるのか、作品にもとづいてもっと知りたい想いに駆られた。

 

わたしたちは今年度に入ってから、石牟礼の新作能について鑑賞と勉強の機会を多く持っていたが、瀬戸内寂聴も「夢浮橋」(2000年3月3日、4日初演、国立能楽堂)という新作能をつくっており、原作を読み、鑑賞を試みるのもためになるのではないかと思う。何度か議論されてきた古のモチーフを取り入れた現代文学の翻訳可能性や困難さについても、別の作家とともに見ることで得られる知見が多いだろうと気づかせてくれる佳き時間だった。

 

報告:髙山花子(EAA特任助教)