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2022.04.05

【報告】EAA座談会「時代の危機と哲学——回帰する亡霊に向き合う」

2022年3月31日、つまり2021年度の最終日にこの緊急企画が開催された。思えば、2020年4月1日、予期せぬウイルス感染症が日本にも広がり始め、完全にオンラインで授業を行うという前代未聞の取り組みが実行される年度の初日に、わたしたちはオンライン形式による座談会を初めて開催している。あれから丸2年が経ち、当初は可能か否かが危ぶまれたオンライン授業やオンライン会議はすっかり常態化し、意外にも少なくない対面授業再開消極派の声のなかで、ようやく原則対面授業にもどることになった。この座談会も収容人数をギリギリまで制限して、対面とオンラインの併用によって開催することができた。緊急座談会を開催することになったきっかけは、ロシアによるウクライナ侵攻という国際政治上の緊急事態であるが、いま報告を書いているわたしは、この異常な事態の生起が、いわゆる「コロナ禍」における隔離による社交(socializing)の喪失という、この2年間、都市生活を営む世界各地の人々の生活を支配してきた「例外状態」の常態化と無関係であるはずがないと、常に心のどこかで思っている。そんなことを理論的に証明する方法などはきっとないだろうが、この座談会で議論の中心になった「ことばと暴力の断絶の消失」という危機的状況は、コロナ禍におけるわたしたちの生活(オンライン生活をなおも「生活」と呼んでいいとわたしは思わないので、これは非生活または反生活の生活である)の条件をありのままに示している。ロシアの指導者もまた、わたしたちと本質的に同じなのではないか、少なくとも、わたしたちもまた、彼と同じ窮地(敢えてそう呼ぶ)に絶対追い込まれないとは言えない。そうわたしは思う。

さて、この座談会では、まず乗松亨平さんに現下の情勢について思うところを語ってもらうことから始めた。だが、現下の情勢を分析し、何らかの納得できそうな説明を加えるという試みを拒否するような情勢こそが「現下の情勢」なのだ。わたしたちは、広義の「哲学」の名のもとに議論すべく集まっているので、国際政治学や歴史学の範囲で背景を論じることはもとより欲していないしそもそもその任に堪えない。だが、乗松さんは、仮に思想的背景を論じるとしても、それが失敗に帰す以外にないという無力感こそが、この一ヶ月ほどの間に目撃してきた事態に対するほとんど唯一の説明であることを隠そうとはしなかった。それは「理解しがたい暴挙」以外の何ものでもない、と言うのだ。そして、このような状況に名を与えるとしたら、それは「イデオロギー言語とトラウマ的暴力の癒着」がもたらした「無底」であり、言語と暴力が直結してしまったのだと結論づける。言語と暴力の断絶を断固守り続けることが大切だったのだ。

 

この報告に対しては3名にコメントをお願いした。星野太さんは、乗松さんの結論を共有しながら、この事態はロシアの特殊な歴史的条件の中でのみ生じたのではなく、至るところで生じている現実ではないかと問う。言語が力を喪失したのではなく、ある意味で過剰なまでに力をもってしまっているのだ。星野さんはことばと力の間にあるべき「クッション」が失われてしまっていると述べ、アレゴリーの恢復が必要であると述べる。

左から鶴見太郎氏、王欽氏、國分功一郎氏

 

王欽さんは、「主権」概念を問い直そうと試みる。ヨーロッパ公法で国家間の秩序を維持するための基準となっている「主権」は、このことばに含まれる「至高の力」としての意味を覆い隠しているが、実際には植民地支配の対象とされた世界の大半を占める非ヨーロッパ地域においては、至高の力が赤裸々に猛威を奮った。しかし、20世紀後半以降の脱殖民地化と主権国家化はそうした主権を馴致したのではなく、むしろヨーロッパが内部から堕落する方向へと向かったと王欽さんは主張する。その堕落を受け入れなければならないところに追い込まれた世界において、いかに別の政治を構想していけるのかが問われているという。

続いて鶴見太郎さんは、多民族国家の枠組みに乗ることなしにロシア大国主義を維持できないロシア世界のありようの抽象性を問うた。そして、この抽象性に耐えるためにただ主権を求心力と定義すること以外になくなってしまったのが今日の「ロシアらしさ」なのだと述べる。言い換えれば、鶴見さんは王さんのことばを受けて、空虚な求心力というかたちで「至高の力」としての「主権」が顕わになった現実を言い当てたのだと言うことになるだろう。

このたびの企画のタイトルは「時代の危機と哲学」であった。哲学はどこまでもことばに対する信を貫くものであるにちがいない。そして、わたしたちは、技術的思考ばかりを追いかける風潮の中でともすればことばの無用さや無力さに関する言説に晒され、時にそれに甘んじてしまっている。そうした状況の中で、ことばの力、ことばの有用性をいかに恢復するのかという問いとは異なるかたちで、わたしたちはいまことばの力について問いを突きつけられている。この座談会の中で明らかになったのはそういうことだった。「断絶を断固守り続ける」ためには、何らかの〈場〉が必要であるにちがいないというのも参加者に共通の認識であったとわたしは理解している。そうした〈場〉をどこで、どうやって生みだしていくことができるだろうか。EAAはそのためのささやかな場であり続けたいと思う。なぜなら、そうした〈場〉が生成される空間であることにこそ大学の存在意義はあるのであり、EAAはそのような大学の存在意義を確認するための「しかけ」であることを任じているからだ。

 

対面授業への復帰に向かう節目の時機に、こうしたすぐれた言葉を持つ学者が集まってこのような議論ができたこと、そして、会場に明日の学問を担う若い学生が集まってくれたことに深く感謝したい。そこにきっと一縷の光はある。

 

 

報告者:石井剛(EAA副院長/総合文化研究科)

撮影者:片岡真伊, 立石はな(EAA特任研究員)