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2022.04.04

修了生挨拶 第1期生 金城恒

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修了生挨拶
(2022年3月23日開催 2021年度「東アジア教養学」修了証授与式に際して)

EAA「東アジア教養学」プログラム第1期生 金城恒

 

本日はこのような素敵な修了式を開いていただき、ありがとうございます。1年前、同じく1期生であった孔さんの修了式に参加したことが、ついこの間のことのように思い出されて、時の経過の早さに驚いています。今日はこの場をお借りして、僕の大学での、そしてここ東アジア藝文書院(EAA)での学びについて振り返りたいと思います。

 以前、ネットサーフィンをしていたときに、あるウェブメディアの「私を救った一冊」という特集に小説家の朝井リョウさんが寄稿しているのが目に留まりました。ここで、朝井さんは「正しさや正解は世界のほうにはない」と話した後、自分はこのことに人生のある段階で気づいて救われたけれども、逆に自分の信じる正しさにも確固たる基盤はないという苦しみが生まれた。そういう苦しみの存在に気づいたときに出会った一冊だ、として森本あんりさんの『不寛容論』を紹介していました。

この「正しさや正解は世界のほうにはない」、という朝井さんの言葉を目にしたとき、僕はちょうど卒業論文を書いていました。卒業論文で僕が選んだテーマは、直接的な先行研究があまりないもので、ある段階から自分のオリジナルな考えを書かなければならなくなりました。しかし、もちろん研究対象の資料は丹念に見た上でも、先行研究に述べられていないことを書く、ということには心理的な抵抗感が強くありました。このような時に、偶然目にした朝井さんの言葉は、大きな支えとなりました。「正しさ」は予め自分の外部に存在しているのではない、であれば自分なりの解釈を提示して評価を待とうと決めました。

思えば、大学での学び、特にEAAを含めた後期課程での学びは本質的に、高校までとは全く違ったものでした。授業だけでなく、シンポジウムや、ブックレット、書籍を通して目にする先生方の姿は、何かしらの「正解」を提示している、というよりは、どちらかと言えば大きな問いに対峙して悪戦苦闘しているように感じられました。今まで繰り返し聞いたことのある、「大学では正解が存在しない問いを考える」という言葉の意味が、卒業間近の今になって、ようやく分かってきた気がします。

 ここで、やや唐突ですが、「学ぶ」とはどういうことかについて考えてみたいと思います。私は学ぶとは、表現することではないかと思っています。もう少し丁寧に言えば、自分の考えを表現する方法を磨くことではないか。学者はそれぞれの分野の専門用語(ターム)で、芸術家は音楽や絵画、映画、文学で、自分の思考や、自分の生きている世界の形を表現しようとします。では自分はどうか。僕は直接的には地域文化研究専攻で、主に近現代の中国について勉強していました。中国研究は学問全体のなかでは小さな分野ですが、中国の近現代史は日本の近現代史とも、ここ数百年のグローバルな変化とも密接に関連している。大学で近現代の中国について集中して学んだことで、僕は現在の世界を考える上での足がかりを得たという気がします。加えて、さらに重要なこととして、自分の言葉で自分の考えを表現することに対する自信を持ちました。EAAの授業を初めとして、大学では様々な本を読み、議論をしてレポートを書きました。最後には6万字の卒業論文を書き上げました。これらの経験は、自分の考えを表現する方法を鍛える、という意味でまさに学びであり、ある程度複雑な事でも、自分は表現できるのだという自信に繋がりました。

 先ほどの「正解は世界の方にはない」という話に戻れば、人生のなかで直面する個人的な問題から、地球規模の問題まで、「正解」というものは自分の外部には存在しないのだと思います。自分の思考力と感性を頼りに、やはり自分で考えていくしかない。しかし、大学での、そしてここ東アジア藝文書院での学びを通して、考える足がかりと、表現することに対する自信を得ることができました。このことは、得難いものなのではないかと思います。いつの時代の人間もこのように感じるのかもしれませんが、今の時代は時に、先が見えない不安なものだと感じられます。そうした時代を生きるにあたり、大学を卒業するということとは関係なく、学ぶということをこれからも続けていきたいと思います。

 最後に、東アジア藝文書院という、非常に自由で刺激的な環境を整えて下さった先生方、授業内外でお世話になったRAの方々、そして留学関連のことについて大変お世話になった渡辺さんを初めとするEAAの職員の方々に深く御礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。