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2023.02.16

【報告】EAAシンポジウム「批評と大衆」

2023年1月29日(日)にEAAシンポジウム「批評と大衆」がEAAセミナー室およびZoomのハイブリット形式で開催された。EAA批評研究会では、2021年から批評にまつわる文献を読む会を積み重ねてきた。本シンポジウムでは、研究会でも取り上げた『批評メディア論―戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店、2015年)の著者で、メディア史・社会批評を専門とする大澤聡氏(近畿大学)をゲストにお招きし、研究会において繰り返し浮上したキーワード「大衆」をシンポジウムのテーマに据え、登壇者の各専門分野の立場から「批評と大衆」に纏わる様々な観点が共有された。

シンポジウムは、大澤氏による基調講演「その「教養」は誰のものか―文化主義の政治的転回」に始まった。講演の冒頭において大澤氏は、『批評メディア論』で取り上げた大衆消費社会時代における言論や批評のシステムへの関心から、哲学者というよりも社会批評家としての三木清へと関心が移行した経緯(『三木清教養論集』『三木清大学論集』『三木清文芸批評集』講談社文芸文庫、2017年)、さらにはより実践的な試みの一環として取り組んでいる『教養主義のリハビリテーション』(筑摩書房、2018)での仕事など、ここ十年での関心の変遷を共有した。これらの三要素(編集・思想・教養)を総合するような形で展開しているのが現在連載中の「国家と批評」(『群像』2020年2月より連載)だという。本講演では、その内容に絡めつつ、批評による大衆性の獲得の失敗、またそこに拓かれ得た可能性をめぐる話が展開された。講演の序盤において大澤氏は、一高内で生じたヘゲモニーシフトや大正教養主義における大衆文化の開花とエリート文化主義との懸隔などを交えつつ、1920年代後半から1930年代にかけての大衆性の歴史的変遷を紹介したうえで、1930年代後半での動きに焦点を当て、大衆を意識していたものがいかなる理由により翼賛体制へと向かったのか、なぜそこに批評性が機能しなかったのかと問いかけた。この疑問を手がかりとし、講演の後半では1930年代後半における倉田百三や三木清などの政治的転回の事例を織り交ぜつつ、批評による大衆性の獲得をめぐる様々な力学や展開などが共有された。

講演者:大澤聡氏

基調講演につづき、比較出版史・比較文学・比較文化を専門とするコメンテーターの前島志保氏(東京大学)は、大衆側の出版物を見てきた立場から、講演で言及された時代の議論において大衆メディアにおいて欠かすことのできない「生活」という要素の位置付けや、批評家たちが意識していた「大衆」の正体を問うと共に、彼らの言論を通して我々が思想の歴史を語るときに溢れてしまう人々の存在を指摘した。同じくコメンテーターを務めた高原智史氏(東京大学)は、自身の一高関連の研究の知見を絡めつつ、大澤氏による一高内で生じたヘゲモニーシフトの説明に敷衍し、一高生による言論の内実を共有すると共に、その中で度々登場する「元気」(現在の健やかさの意というよりも、天地自然や人の身体などを根源的に形作物質としての元気。精神的・身体的、そして集団的でもあり個人的でもある、両要素がない混ぜとなっている状態を表す)の要素に着目することにより新たに見える様々な様相、例えば国家と大衆を結びつけるものとして「元気」が果たした役割などに言及した。

つづく第二部では、研究会のメンバー3名による個人発表が行われた。一人目の登壇者である郭馳洋氏(EAA)は「対立性のジャーナリズム― 長谷川如是閑と戸坂潤の大衆観と批評」と題した発表で、1920年代から1930年代初期における如是閑と戸坂のジャーナリズム論を取り上げた。郭氏によれば、如是閑は出版大衆化と言論の商品化による新聞紙の批判性の喪失を問題視し、ジャーナリズムのもつべき対立性を強調した。それを踏まえて戸坂は「批評」と「大衆」という概念の再把握を通じて、大衆の自己組織化を意味する新たな大衆化を提起したという。続く発表を担当した片岡真伊(EAA)は、「戦後期の日本文学英訳と批評― 翻訳・出版現場にみるその役割と可能性をめぐって」と題し、翻訳文学と大衆・批評との関わりに焦点を当てた発表を行った。戦後期に日本文学の英訳が活性化したアメリカにおける読者大衆の実像を紹介すると共に、当時編集者たちが想定していた読者層とその内実、そして第二次世界大戦後に日本文学が英訳・紹介される流れにおいて批評が果たした役割について解説した。中国音楽思想史、儒学を専門とする田中有紀氏(東京大学)は、「前近代中国における「大衆」とは誰か―儒学の音楽論にみえる「批評」を手がかりに」と題した発表を行った。前近代の中国においてもまた、社会を率いる知識人と民との相互関係がありながら思想史が展開するという。孟子の王道や革命説、惻隠の心から朱子学の性即理や格物究理、陽明学の心即理に至るまでの流れを素描したうえで、大衆も聖人になり得ると考えていた陽明学の場合、さらには朱載堉による舞踏批評論などを交えつつ、前近代中国の儒学における大衆の有り様を詳説した。

(上段)左から前島氏、高原氏、(下段)左から田中氏、郭氏、片岡

個人発表に続く総合討論では、ここまでの流れで浮上したテーマ、例えば「大衆」や「読者」の実態をめぐる問いや、アメリカや西欧などから見たときに浮上する日本における批評という営みの特殊性、さらには批評を届けることができる範囲で大衆を論じることへの問題意識など、多岐にわたる話題に議論が及んだ。今回のシンポジウムを通して改めて浮き彫りとなったのは、「大衆」という概念の多層性・重層性、また学術の立場から論じる際に付き纏う困難である。だが、一方で「大衆」という枠組みは、批評だけを見ていては見えてこないもの、知識人の側だけに焦点を当てるだけでは見えてくることのない受容する側の事情を組み込む手立ての一つになり得る、と大澤氏は述べる。批評というものを考える際に「大衆」という概念が有する潜在的な可能性を改めて確認すると共に、今後各自が各々の専門に持ち帰るべき課題が照らし出された充実した会となった。

EAAのページでは、研究会メンバーの郭氏による大澤氏の著作『批評メディア論』の書評(英語)も公開されている。大澤氏の研究、そして今回のシンポジウムで言及のあった「批評」にまつわる様々な語彙の翻訳問題に関心のある方は、こちら([EAA Book Review-07] Satoshi Ōsawa, A Study on Media of Criticism)も併せてご覧いただきたい。

 

報告者:片岡真伊(EAA特任研究員)
写真撮影:郭馳洋(EAA特任研究員)