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2021.04.09

【報告】連続シンポジウム「世界哲学・世界哲学史を再考する」第2回「世界における日本哲学を再考する」

『世界哲学史』(全8巻+別巻、ちくま新書)

 

2021年3月25日、連続シンポジウム企画「世界哲学・世界哲学史を再考する」の第2回「世界における日本哲学を再考する」がZoomにて開催された。この連続シンポジウムは、2020年にちくま新書から全8巻+別巻が刊行された『世界哲学史』シリーズの編者である納富信留氏(人文社会系研究科)をオーガナイザーとして迎え、「世界哲学(史)」というコンセプトのさらなる可能性を探究する試みの一環である。

哲学をめぐる中国とヨーロッパの関係についての議論が交わされた前回に続いて、第2回となる今回のシンポジウムでは、オーガナイザーの納富氏に加えて、『世界哲学史』の第7巻第10章「「文明」と近代日本」を寄稿した苅部直氏(法学政治学研究科)、第8巻第9章「アジアの中の日本」を寄稿した朝倉友海氏(総合文化研究科)、別巻第6章「道元と中世の日本哲学」を寄稿した頼住光子氏(人文社会系研究科)が参加し、それぞれの視点から「世界哲学(史)」という視座のなかで「日本哲学」をどのように位置付けていくかのアイデアを持ち寄った。議論の糸口を提供するため、そこに郭馳洋氏(総合文化研究科・博士課程)が加わり、自身の専門も踏まえた観点からコメントを行った。

 

 

納富氏は、今回のシンポジウムの趣旨説明を行った。前回のシンポジウムを振り返りつつ、「世界哲学(史)」という枠組みのなかで「日本哲学」を考えるための基本的な視点を整理した。世界哲学における日本哲学の位置や役割を考えるためには、そこで言われている「日本」の文脈がそのつどの議論のなかで特定されなければならない。納富氏は、様々な文化的背景(漢字文化、宗教的伝統、伝統芸能および現代の視覚文化など)のなかで「日本」を論じうること、そして、「日本」という限定が地理的な意味なのか、言語的な意味なのか、共同体的な意味なのか、といったことなどがつねに問われなければならないことを指摘した。

頼住氏は、「中世日本哲学と世界哲学」という題で報告を行った。氏は、西洋哲学における理性中心主義、人間中心主義に基づいた二元論およびそれを乗り越えようとする伝統に言及したうえで、主客の対立を乗り越える試みのひとつとして、日本中世の仏教者である道元と親鸞の思想に注目する。注目すべきは、道元と親鸞における「仏性」についての考え方である。仏性とは「仏になりうる可能性」であり、誰もが修行によって成仏する可能性を持っているという主張を支えてきた概念である。頼住氏は、仏教思想のなかで「仏性」が実体化され、個物に内在するものとして理解されてきたことを指摘する。本来であれば実体化できない存在を実体化してそれに執着すること(煩悩)を批判する仏教的な思惟方法に基づけば、このような仏性理解もまた批判されなければならない。実体化に抗する仏性理解を展開した代表的な仏教者としての道元と親鸞へと注目することで、世界哲学に対して日本哲学からの示唆を得ることができるだろう、というのが頼住氏の主張であった。

苅部氏は、「近代日本哲学と世界哲学」という題で報告を行った。氏は冒頭で「近代日本哲学」のイメージを問い直す。ふつう近代日本哲学といった場合には井上哲次郎や井上円了といった、19世紀の終わりに成立したアカデミズムにおける哲学が取りざたされる。しかしながら、苅部氏は江戸期後半の西洋との出会いをひとびとが「開化」「文明」といった概念で理解しようとした経緯に注目する。黒船来航から開国へと向かう日本史の流れは、しばしば黒船の「襲来」や、開国を「余儀なくされた」といったかたちで、受け身でネガティブなものとして語られる。だが、日本の文化的伝統のなかに古くからあった「開化」「文明」といった言葉によってこの西洋との出会いを表現した知的文脈のなかに、むしろ伝統的な思想に基づいて西洋的価値観を積極的に取り入れていこうとする姿勢を見いだすことができる。さらに、このような捉え方は当時のインテリだけに見いだされるものではない。町人文化のなかに、より洗練された「人情」をもたらしてくれるものとしての西洋文明への期待感が普及していたのではないか、と苅部氏は仮名垣魯文の戯作を例に挙げて指摘している。

朝倉氏は、「アジアの中の日本哲学」という題で報告を行った。氏はまず、日本哲学について議論されるときには、西洋哲学と伝統思想との関係を強調しながら東アジア圏の近代哲学から切り離される傾向があると指摘する。しかしながら、そのような議論のなかで「西洋哲学」および「伝統思想」が扱われる際には、西洋哲学がある種の大陸哲学へと矮小化され、仏教理解が特定の対立関係を過度に強調した図式にとどめられてしまうことがある。朝倉氏はこのような問題意識のもと、西洋における分析的伝統と大陸哲学の分断の経緯にアジア圏の思想が関わっていることを明らかにする。そこから帰結するのは、大陸哲学の一種としての日本哲学という位置付けであるが、この理解は素直に歓迎できるものではない。そこで氏が注目するのは、分析的伝統に寄り添ったかたちで東アジア思想の「論理」を扱う研究の伝統である。西洋哲学の分断をそのまま内面化した一面的な哲学観を廃し、より広い文脈で日本哲学を捉え直すことを朝倉氏は提案している。また、東アジア仏教の理解についても、天台・華厳の対立関係と論争の伝統を踏まえることなく、華厳的な図式を下敷きにした仏教理解ばかりが強調されることへの疑念が提示される。哲学においても仏教においても、分断された一方にのみ親和的な理解が広まってしまうことに対して警戒しなければならないというのが、朝倉氏の主張である。

三人の報告の後、日本近代思想史を研究する郭氏がコメントを行った。郭氏は、頼住氏と朝倉氏が『世界哲学史』に寄せた論考に「実体的なものから関係的なものへ」というテーマおよび仏教というモチーフが共通することをまず指摘している。これらは、主客二元論的な考え方から距離をとっているという点で一元論的なモメントを備えている。このような一元論的なモメントは、苅部氏が扱った19世紀日本における「文明」批評のなかにも見いだされる。郭氏は自らの研究分野を背景として、以上のような仕方で三者の報告を横断するようなパースペクティヴを提示している。徳富蘇峰は19世紀の終わりに、日本が批評の時代を迎えていると述べた。この批評の時代を先導したのが大西祝である。彼の文明批評を貫く問題意識は、西洋の文物が大量に流入することによって生じる思想の混乱のなかで、精神の拠り所(「安心立命」)を見いだすことであった。近代化が進む日本のなかで「安心立命」を喪失してしまうのではないか、それを取り戻さなければならないのではないか、という問題意識は、井上哲次郎の現象即実在論や、清沢満之の万物一体論の背景を成していた。郭氏は自身の研究分野を背景として以上のような報告をおこなったうえで、報告者それぞれに対して質問を行った。

その後は、郭氏の質問への応答を皮切りに、お互いの報告内容に関して活発な議論が展開された。「日本哲学」と一口に言ったとしても、そこで言われている「日本」は決して揺るぎない実体を持って私たちが触れることのできるものではない。登壇者の報告と議論は、すでに確固としたかたちで聳える「日本哲学」を確認するようなものではなく、むしろ固定的に捉えられてきた「日本哲学」の有り様を捉え直し、流動化していくような側面が際立っていたように思われる。しかしながら、それは事態をいたずらに複雑にし、認識を曖昧にしていくようなものでもない。拠って立つものの「確からしさ」をつねに問い直していく今回のシンポジウムのような営みを、安心立命を追い求めた19世紀末の知識人たちの肖像に重ねることができるかもしれない。

報告者:田村正資(EAA特任研究員)

 

 

第2回シンポジウムの参加者からいただいたご質問・コメントの一部を
紹介させていただきます。回答はシンポジウム発表者個人の意見です。

 

Q1

古代以来日本では、土着の習俗を外来の普遍的理論(おもに仏教、儒学)を通じて説明するということの繰り返しだったと思います。仏教、儒学に関しては江戸時代以前までにかなりの程度土着の習俗への定着ないしすり合わせが進んだのではないかと思います。受容開始以来2世紀になろうとする西洋哲学は、土着の習俗への定着ないしすり合わせはすでになされたと見るべきでしょうか、それともまだまだこれからだと考えるべきでしょうか。また、どういうことが起こったらそれがなされたと判断できるようになるでしょうか。個人的には、今はむしろ西洋哲学研究者、また西洋のスタンダードを日本に直接適用しようとする一般的な風潮に向けてこそ漢意批判を展開すべき局面なのではないかと思ったりもするのですが。

A(苅部)

まったくの思いつきの私見ですが、外来思想を受容するには「土着の習俗」への「定着」「すり合わせ」がないといけない、と考えること自体が、近代日本の知識人に特有のこだわりではないでしょうか。仏教の戒律も、儒学の礼も、日本の習俗にはいまだに定着していないと思いますし、反対に、「政治」や「哲学」に始まって、西洋由来の概念を日本人はすでにある程度使いこなしています(もちろん充分な理解かどうかという問題もありますが、厳密な議論をするなら欧米の普通の人だって、それをちゃんと理解していると言えるかどうか?)。大事なのは、習俗として定着させる(←その必要があるかどうかも検討が必要ですが)以前に、異なる地域・時代の文化や思想については、自分の理解と「本場」でのそれとの異同を吟味する姿勢を、常に忘れないでいることではないかと思います。

 

Q2

朝倉先生への質問です。日本哲学における大陸哲学の傾向を是正する必要があると強調していますが、私見ではこの傾向をむしろ日本哲学の多様性(間文化性)として評価すべきだと思っておりますが、いかがでしょうか。例えば、牟宗三の哲学においても大陸哲学(カント)の傾きが顕著ではありますが、この傾向も是正する必要があるのでしょうか。

A(朝倉)

大変に興味深いご指摘ですが、私が述べたかった点は、分析系/大陸系の違いがタコツボ的傾向と結びつくことで、日本哲学の可能性を狭めてきたことについてです。発表の中では、京都学派研究を例にとり、かつて大陸系へと行き過ぎた傾斜を見せたという認識のもとに、分析系のアプローチを対置することで、議論の活性化を促す趣旨の発言をいたしました。しかし、異なる文脈のもとでは当然ながら言い方も変わってきます。日本哲学が逆に分析系一辺倒となるような文脈を想定するならば、別の方向での「是正」が必要になるという点に私も同意します。そして、分析哲学をグローバルスタンダードと見るような立場への批判こそが「世界哲学」の特色ともなっています。こうした観点からすれば、(当時の)分析哲学へ苦言を呈し「非分析的」思考について述べた牟宗三には、確かに哲学の多様化へのヒントを見て取ることができます。ただし、仰るように日本哲学についても同様のことが言えるかどうかは難しいところで、やはりタコツボ性への批判的観点が必要だと私は思います。

 

Q3

宗教(超越)と哲学、文学(芸術)(エステティックなもの)と哲学との関係を議論してほしい。両項の質的な差異を確保しつつ不可分の関係を構想していくべきだと思うのですが、質的な差異をあいまいにすることによって両項を関係づけようとする方向に流されがちな気がしています。たしかに哲学を近代の大学の一学科に限定する必要はないというのはもっともです。しかしアリストテレスの第一哲学を一つの範型とする学問を宗教や文学と連続的に捉えようとすると、重要な一面が抜け落ちてしまうのではないかと思います。

A (納富)

コメントありがとうございます。私は古代哲学を研究しているので、そこから見ると宗教と哲学、文学と哲学という区別は歴史的に作り出された西洋近代の枠組みであり、少なくとも紀元前4世紀まではそれらは一つの知の営みであったと考えています。神を扱わない哲学はありませんでしたし、詩や悲劇・喜劇は異なる表現形態や社会的役割を持ちましたが、それらもいわゆる哲学や諸科学と密接に連関して展開していたからです。文学と哲学との対立は前4世紀にプラトンが提起しましたが、弁論術の伝統ではその通りには受け取られませんでした。また、アリストテレスは『詩学』で悲劇を人間の生を捉える究極の制作と考えました。宗教との区別はさらに後で18世紀でしょう。アリストテレスの『形而上学』は神の問題を論じていて、「神学」とも呼ばれています。それらをそもそも別の領域と考える近現代的見方は徹底的に反省されなければならないと考えています。無論、その中での質的な差異をどう考え位置づけるかは重要な課題です。

中国でも「文」はいわゆる哲学と重なっています。日本では近代以前の思想が「宗教」に過ぎないと退けられることがありますが、そういった発想が貧困であることは、古代ギリシアを鏡にすることで見えてくるように思います。「世界哲学」では、西洋近現代の学問の枠組みが問題となります。