2025年7月18日(金)、白岩英樹氏(高知県立大学)をお招きし、「大国」アメリカのなかに見られる「小国」精神をテーマとするセミナーを開催した。白岩氏は、アメリカのみならず日本の歴史・思想・文学をも縦横に参照しながら、デモクラシーの理念をいかに深めることができるかを、ともに考えるための豊かな素材を数多く提示してくださった。
白岩氏は、アメリカ独立宣言に謳われている「すべての人間は平等に創られている」という理念を「ラディカル・デモクラシーI」と位置づけ、南北戦争を経て多元主義的な実践の哲学として再構築されたプラグマティズムを「ラディカル・デモクラシーII」と整理した。そして、現代の危機において立ちあがるべき「ラディカル・デモクラシーIII」のあり方について問題提起した。
ラディカル・デモクラシーの考察に際しては、戦争がもたらす断絶と再編が重要な問題になってくる。特に、どのような負け方をするのか、そして戦後の勝者と敗者の関係がどのように構築されるのかが鍵を握っている。これはアメリカの南北戦争のみならず、日本の戊辰戦争についても言える。そして白岩氏は、「官軍」の側ではなく、むしろ「賊軍」とされた敗者の側にこそ、未来を拓く可能性の芽が潜んでいるのではないかとの見解を示した。
南北戦争における勝者と敗者の双方を悼むべき存在であるとしたホイットマンのケアの精神から勝敗二元論を超絶する視点を引き出した白岩氏は、地に足のついた個人の現実から出発する知識のあり方を説いたエマソンや、その思想を継承したソローを通じて、徹底した個人主義から出発して普遍に到達する道があることを強調した。
その際に重要になってくるのが、家の比喩を用いれば、「現場」に相当する「1階」と、「理念」に当たる「2階」、そして両者を媒介する「中2階」の関係である。日本の幕末・維新期には、内在的な尊王攘夷の「私情」が現実に直面して開国へと転轍し、「内」と「外」とのあいだに新たな関係性の回路が開かれていった。福沢諭吉のように、西洋との関係を認識した開明派でありながら、内在の論理も重視した思想家もいる。「1階」から「2階」へであれ、「2階」から「1階」へであれ、このように両者を媒介する「中2階」の役割の重要性が強調された。
その具体例として紹介されたのが、「東洋のルソー」として知られると同時に「儒学者」でもあった土佐の民権運動の志士・中江兆民である。また、権威主義に反旗を翻してアメリカ中西部の神々を見出そうとしたシャーウッド・アンダーソンは、上昇志向を避けて、モグラのように地中を掘り進んでいく詩的想像力を示した。理念を高く掲げるのではなく、日常のなかに倫理や希望を見出していくギャリソン・キーラーの文学にも言及がなされた。
さらに、白岩氏の出身地である郡山ともゆかりのある朝河貫一の問題意識も取りあげられた。それは、滅びゆく敗者の側にある価値が、勝者側の論理のなかにいかに再生されうるかという条件を問うものであった。それは、たとえば間違っていたかもしれない南軍側に潜む貴重な価値をどのように生かせばよいのかという問いにも通じる。
講演の最後では、ラングストン・ヒューズの「アメリカを再びアメリカに」(Let America Be America Again)が紹介された。これは、レーガンやトランプの「アメリカを再び偉大に」(Make America Great Again)とはまったく異なるもので、私なりに補って言えば、「大国」アメリカに内側から抗する「小国」の精神がここにある。
話題は縦横無尽に広がりつつも、問題意識は首尾一貫していた。いくつかある主要なテーゼのなかでも印象的だったのは、勝者と敗者が生じる状況において、「中2階」をつくる営みがなされないと、社会の分断が深まってしまうという視点だった。敗者が徹底的に痛めつけられ、蔑まれると、抑圧の怨念が暴発して鬼子のような存在が生まれてしまう危険がある。これは、大国に対峙する小国が、大国化するときにつねに生じかねない問題である。
白岩氏の講演でも言及された評論家の加藤典洋は、尊王攘夷の思想が明治維新とともに忘却され、それが第二次世界大戦期の皇国史観につながり、さらに戦後がそれを忘却したことで、改めて尊王攘夷の亡霊が呼び戻されかねないと警鐘を鳴らしていた。尊王攘夷的なもの、南軍的なもの、敗北後に貶められた人や思想や価値観の追悼や継承の仕方を誤れば、それらは次の世代において歪んだ形で表出することがある。私たちは、まさにそのような状況を目撃しているのではないだろうか。そう考え合わせると、今回のセミナーが、現状の危機と課題を前にして、見通しの広いアメリカ文学で切り込んだ、きわめてアクチュアルな試みであったことの意味が、ひしひしと胸に迫ってくる。
文責:伊達聖伸
写真:三野綾子(EAA学術専門職員)

