2026年2月23日、東京大学駒場キャンパスにて、第9回「小国」論セミナーが開催された。髙山花子著『世界のかなしみ——『苦海浄土』全三部試解』(月曜社、2025年)の合評会として、著者の髙山花子氏(明治大学)が発表し、友常勉氏(東京外国語大学)が評者を、伊達聖伸氏(東京大学)が司会を務めた。

髙山氏の発表は「石牟礼道子と詩語の希求」と題され、『苦海浄土』とその関連テクストから四つの引用箇所を手がかりに展開された。第一に、第三部「天の魚」終盤で東京の大地が「発狂している」と描かれ、「未完の詩」が不意に推敲される箇所に着目し、闘争記録とは異なる石牟礼の詩的言語への志向を指摘した。第二に、三部作の複雑な生成過程——第二部の連載中断、第三部や『流民の都』が先に成立したこと、当初の四部作構想——を辿り、全集には収録されなかった連載中断時の後記を紹介した。第三に『流民の都』に収められた周辺テクスト群を取り上げ、未完の詩の構想や在日朝鮮人作家への言及など、三部作には現れない要素の存在を示した。第四に、黒井千次との対談における石牟礼自身の発言——方言を「詩語」に昇華したいという希求、言葉を計算的に選び取っているという自覚——を紹介し、闘争の言葉と詩語への志向との緊張関係を今後の課題として提示した。

友常氏のコメントは、髙山氏の読みの方法論的特質を浮かび上がらせるものであった。石牟礼のテクストは方言と思想の言葉が一体化した「滑らかさ」を持ち、読者はまずそこに身を委ねることになるが、髙山氏の読みはその滑らかさの内部に走る複数の「乖離」を見出す点に特徴がある。とりわけ、民衆の語りに潜む優生主義的な視点を冷静に指摘しつつも、「非人(かんじん)」という言葉が設定する別の理想の重みを損なわない均衡——友常氏の表現では「批評の言葉が全体を侵害していない」——を本書の美質として評価した。また、フィクションとしての聞き書きの虚構性を規定するのが「耳と聴覚」であるという髙山氏の議論に注目し、前著『モーリス・ブランショ レシの思想』における「来るべきものとしてのレシ」と、胎児性患者たちの「もうひとつのこの世」とを重ね合わせる可能性を提起した。

討論では、伊達氏が文学理論をあえて使わず「素直に」テクストに向き合う方法の意味を問い、髙山氏は民衆の語りに内在する規範意識にどう向き合うかに最も時間を要したと応答した。会場からは、髙山氏の翻訳経験と批評的手つきとの重なり、石牟礼が書ききれないものに惹かれ続けた一方で書くことの呪縛にも苦しんでいた問題、御詠歌の練習時期と三島由紀夫の自決との近接などが話題に上った。髙山氏は今後の展望として、1970年代に福岡で刊行された雑誌『暗河』の連載や、1968年の世界的な学生運動との同時代性のなかで石牟礼を読むことを構想していると述べた。
報告・写真:汪牧耘(EAA特任助教)