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2021.01.27

インターネット学術対談「サイノフォーン文学からサイノフォーン哲学へ」

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2020年12月5日、マレーシアのスルタン・イドリス教育大学の中国思想史学研究者魏月萍さんの招きで、オンライン対談に参加してきました。対談のお相手は高嘉謙さん。ハーヴァード大学のDavid Der-wei Wang(王徳威)さんといっしょにサイノフォーン文学のアンソロジー『華夷風』を編集した台湾大学の文学研究者です。この対談が実現したのは、魏月萍さんが創刊したErudite: Journal of Chinese Studies and Educationというオンライン雑誌の第1号に拙稿「华语语系哲学作为世界哲学:方法论刍议」(世界哲学としてのサイノフォーン哲学:方法論芻議)を掲載してもらったことです。この論文は2019年3月に北京大学でEAAのキックオフ・ミーティングを開催したときに行った発表に基づいて書き直したものでした。サイノフォーンSinophoneというのは、AnglophoneやFrancophoneという言い方を範として中国語のグローバルな広がりをとらえるために造られた方法論的術語です。そこでは、故土(それは必ずしも海外移民にとっての中国だけではありません。広い領域を持つ中国には、同じ「中国語」と見なされる言語があまりにも多様な音声で話されています。)から離れて、自らが使っている言語とアイデンティティの脱領域化の経験が文学的想像力を触発していきます。それらはいずれも、漢字という同じ書きことばを共有しつつも、声の経験としては多様であり、そうした声の多様さゆえの摩擦や不安、そして、声を発する主体と発せられた声の間の疎隔が主題化されていくことになります。

 マレーシアには、華人系のエスニック・グループが人口の四分の一ぐらいの割合で生活しています。わたしは恥ずかしながら彼らの歴史に対する基本的な知識を欠いたままこのたびの対談に参加しました。せいぜいわかったのは、彼らがマレーシア社会におけるマイノリティとして、サイノフォーンという概念自体に対して、アンビバレントな感情を持っているということです。Sinophone Studiesの首唱者である史書美(Shu-mei Shih、UCLA)はサイノフォーンの担い手のひとつとして東南アジアに広がるsettler colonialismの末裔たちを挙げています。しかし、こうしたとりあげ方は、当事者たちの当惑と反感をもたらすものとならざるを得ません。マレーシアのみならず、シンガポールにおいても複雑な感情をもって迎えられているようです。そこでは現在の中国との経済関係を緊密に発展させる一方で、英語中心のグローバリズムに積極的に加担することで、華語話者の周縁化が急速に進んでいると言います。

 わたしが提出したのは、サイノフォーン文学とは異なるサイノフォーン哲学の可能性に関する議論でした。サイノフォーンという媒介を通じて、相異なる多様な声それぞれが持つ単独性に気づくきっかけを得ると同時に、それらの単独の存在が「哲学する」という共通の人間的性質に基づいて、普遍を目指すことができるのではないか。漢字の共通性が代表するなにがしかの文化中心に向かうのではなく、漢字の共通性によってはじめて明らかになる、字と概念に対する理解と内部翻訳の多様な豊かさに着目することで、近代的に構築されてきたのとは異なる普遍へのアプローチを発見しうるのではないか、そういう趣旨でした。それでわたしは空海の例を挙げました。コスモポリタニズムを体現していた唐の都長安で仏教を学んだ空海の生きた姿はとてもサイノフォーン的です。もちろん、ここでサイノフォーンは話者のアイデンティティとは切り離れた言語実践です。わたしはサイノフォーンをアイデンティティの政治から切り離したいと考えて、この議論を試みたのでした。

 しかし、この対談に集まった方々とのディスカッションを通じて気づかされたのは、彼らにとって、相変わらず重要なのはアイデンティティの問題であるということです。世界哲学にせよ世界文学にせよ、各地の多様な哲学言説や文学作品をアイデンティティ(とりわけナショナル・アイデンティティ)の磁場から切り離すことを目指しているはずです。しかし、彼らにとってより差し迫った問題は、彼らのアイデンティティを代表する言語や文学、そして哲学を確立することの(不)可能性なのです。

 さて、この立場性のちがいをいったいどうすればいいのでしょうか。とくにシンガポールのような経済と科学技術が高度に発達した社会では、言語と文化の問題は、技術と身体の問題へとすぐさま転化します。言語の喪失に対する不安は、そのまま身体性の危機につながってしまうのです。イベントでは、そのことに対する焦燥感がディスカッションの中でも直接間接に露呈しました。もちろんわたしなりの応答ははっきりしています。それは、サイノフォーンをプラットフォームにして、自らの身体の側からもう一度世界を構想することしかないのではないかということです。

 日本語に関しても、水村美苗氏が述べるように(『日本語が亡びるとき』)、グローバル化のもとで危機に瀕しているのかも知れません。これはきわめてアクチュアルな課題です。そして、この危機は、実はサイノフォーン内部にも存在していると言ってよいでしょう。中国語でサイノフォーンは「華語語系」と訳されますが、ある論者は華語は華語であり、そこに「語系」を追加するのは蛇足であると批判します。しかし、「華語語系」は「華語」内部とその周辺の声の多様性こそを示すものですから、この批判自体が、サイノフォーン話者における声と身体の多様性が失われつつある現実をなぞっているものだと言えます。わたしはだからこそ、サイノフォーンの言説空間に積極的に入って行きたいと希望しています。同時にそのことは、わたしの参与する日本語の世界を豊かにすることにきっとつながるでしょう。

 まだ訪れたことのない東南アジア。これを機にまた自分の足でかの地を訪れ、そこでの人々の生活に触れることができるのを楽しみに待つことにします。

報告:石井剛(EAA副院長)