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2022.03.28

修了生挨拶 第1期生 籔本器

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修了生挨拶
(2022年3月23日開催 2021年度「東アジア教養学」修了証授与式に際して)

EAA「東アジア教養学」プログラム第1期生 籔本器

 

EAAユース一期生の籔本と申します。本日は、私たち修了生のためにお集まりいただきましてありがとうございます。金城君や円光君による秀逸なスピーチの後に、拙いお話をお聴かせしてしまい甚だ恐縮ではありますが、どうか少しの間お付き合いくださいますようお願いいたします。

私が初めて駒場の門をくぐったのは5年前の春、2017年4月のことでした。教養学部に入学した当初より「学部の早い内から留学に挑戦したい」と考えていた私は、東アジア藝文書院の前身であった東アジアリベラルアーツイニシアチブによるキャンパスアジアプログラムを利用して、一年間の北京大学への留学に赴きました。本日この卒業式の会場にいらっしゃる皆様には、この頃に初めてお会いして以来、今日この日に至るまで変わらずご支援をいただいております。留学から帰国した19年にはEAAユースの活動が始まることを知り、更なる出会いと学びの機会を求めてこのプログラムに応募し、この2年間で実際に多くの経験と知識を得ることができました。今日の私があるのは、私の学生生活を影に日向に支えてくださったみなさんのおかげであることを、この場で改めて御礼申し上げます。

 EAAユースでの2年間を振り返ると、私の中で常に答えを見つけたいと思い向き合い続けてきた一つの疑問があります。それは、「教養」とは果たして何であるのか、という問いです。駒場キャンパスの正門に学部名として掲げられているこの二文字は、あるいは私たちが日常の中で使わない日がないと言っても過言ではないこの概念は、果たしてどのような存在なのでしょうか。法学部、経済学部、文学部と同列に学部名として用いられているこの言葉は、果たして法、経済あるいは文学と同列に論じることのできる学問の一分野なのでしょうか。「教養」とは、目に見ることのできるものなのでしょうか、あるいは取って触ることのできるものなのでしょうか。これらの問いに対する答えは、それと向き合う人の数だけあり、またその答えも時の流れとともに変わっていくものであるのでしょう。しかしながら私はあえてここで、東アジア藝文書院での2年間の間に見つけ出した答えを、みなさんに提案したいと思います。それは、教養とは「他者との交わり」そのものである、ということです。

 私たちは普段、私たち自身の中に伝えたいことが事前にあって初めて、他者との対話が成り立つと考えてしまいがちです。ですがそれは実態とは異なるのではないでしょうか。一つの主題に対して異なる立場から観察している複数の人間が集まり対話をする際に実際に起きているのは、他者との対話を通じて自己の内面を探り当てていく、あるいは自身の意見を形成していくというのが順番として正しいのではないでしょうか。そしてこの営みそのものが「教養」なのではないでしょうか。このように考えると、この教室で私を教え導いてくださった先生方との対話、私の学業を支えてくださった職員の方々との何気ない会話、そして授業の内外を問わずに学友たちとの間で交わした議論の応酬そのものが、私にとってかけがえのない「教養」であると思うのです。私たちはみな等しく、いつの日かこの場所を去ります。しかし、肉体は去りますが、私たちがこの場で行った「思考」は、この書院に「教養」として残り続けます。皆さんを前にこうしてお話をしていると、この方々ひとりひとりが私の学生生活にとり最も貴重な「教養」であったこと、そして他ならぬ私自身がこの方々の「教養」とならなければならないという万感の思いに包まれてきます。

 今日を以てこの書院を卒業する私ですが、いつの日か再びこの地に戻ってきた時には、これまでと変わらない、あるいはこれまで以上に活発な議論が行われる場所として、この書院が残り続けていることを願ってやみません。この式には新しく参加する3期生の方々も出席してくださっているとのことですので、みなさんがこの書院で自分自身の「教養」を見つけてくれることを期待して、私からの挨拶とさせていただきます。

 長い間、本当にお世話になりました。