前回このコラムを書いたのは2024年12月21日のことでしたので、ずいぶん間隔が空いてしまいました。いろいろなことがありますのでなかなかまとまらなかったからなのですが、ゴールデン・ウィークに入ろうとしているこのタイミングで、この状況について一度整理しておこうと思います。すべては東アジア藝文書院の今後を見通す上で重要な路標になりそうだからです。
まず、岩波書店から『思想』3月号として「現代中国の思想」特集が2月の末に刊行されました。これは2022年の夏から秋にかけて行ったオンラインイベント「現代中国の思想状況を知る」シリーズ(第1回、第2回、第3回)がきっかけとなって実現した企画でした。現代中国でどのような思想が展開しているのかを外側から知るだけではなく、それらと対話的な関係を築いて「関与」していくことが、EAA設立当初からの希望であると言って過言ではありません。6月11日には、この『思想』特集を書評するというかたちで、シリーズ第4回が開催される予定です。
3月には、王欽さんの中国語による新著『“零度”日本』を手がかりにして、東アジアの各都市(上海、台北、香港、ソウル、東京、仙台)におけるサブカルチャーとモダニティ批判の言説を共有するイベントが行われました。これは冷戦構造の下で生じた1980年代の東アジアにおける大衆文化共有現象から今日までの、この地域における文化政治について省察を加えようとする試みでした。各都市から研究者を招いて中国語で行ったという意味でも画期的だったと思います。これは1年ほど前から構想している「Philosophy in Tokyo / Tokyo in Philosophy」プロジェクトのための萌芽研究という位置づけでもありました。サブカルチャーで結びついたこの地域の若い世代が、モダニティの重力を引き受けながらも新しい世界を切り拓いていくための視点がここから生まれていくことをわたしはひそかに願っています。

上野寛永寺にて。左から陳学然さん(香港城市大学)、倪文尖さん(華東師範大学)、羅崗さん(同)、白池雲さん(ソウル国立大学)、蔡孟哲さん(高雄師範大学)、張政遠さん(EAA)
また、3月には学生の皆さん11名と共に北京大学と清華大学を訪れました。いずれこのブログにも参加した学生さんからの報告記事が掲載されることかと思います。この北京研修の目的は、両大学で活発な勢いをもって進められている「書院」型リベラルアーツの実態に触れることでした。わたしたちのカウンターパートである北京大学元培学院の学寮(元培書院)のほか、清華大学の日新書院と新雅書院にも訪れ、濃密な交流を行うことができました。これについては後日、学生さん主体の報告にあわせて詳しくご報告したいと思いますが、ひと言だけここで述べておくと、「東アジアからの新しいリベラルアーツ」が中国のトップ大学から具体的に実践されているという事実はもっと広く知られるべきです。そして、その成否の鍵は、その中で育つ学生さんたちがその苦悩を自ら克服していくことを、教職員が彼らといっしょになってサポートし、導いていけるかという点にありそうです。翻って、東京大学に集う学生さんたちにはそのような場が提供されているだろうかと問いながら、国際的な協働の下で、共に人間として育っていけるような学問の場を構築することは、同じく「書院」の名を冠したEAAに課せられた役割なのだと思います。

清代康煕年間に伊万里焼を模して景徳鎮で作られたという磁器@北京大学サックラー考古学美術館
3月はまだ他にも意義の大きなイベントが行われました。26日のシンポジウム「社会課題の解決に向けた企業活動・人文学・リベラルアーツの協働」です。これは、研究・教育・社会連携三位一体型による「新しい大学像」を提供するわたしたちが、リベラルアーツを基盤とした産業界との協力可能性を模索する試みです。野澤俊太郎さんが強力なエネルギーで進めている「空気の価値化」プロジェクトの中間総括であると位置づけられますが、産業界と学術界が悦びを共有し、楽しみあいながら、共によりよき社会に向かって進んでいくために、リベラルアーツたる知が有効であることを、初歩的ながら示すことができたはずです。
4月初め、わたしは招かれて香港を訪れました。香港教育大学が主催した大がかりな国際シンポジウムでは、北京大学の王博副学長やヴェネチア大学学長のリッピエロ(Tiziana Lippiello)学長らに混じって基調講演を仰せつかり、EAAの枠組みで取り組んできた「共生」と「空気の哲学」について論じてきました。また、香港中文大学の要請を受けてEAAと東大教養学部の理念と実態について議論することができました。わたし個人として、香港の大学とは最近さまざまなチャンネルで交流を持つことができているのですが、こうした中からおぼろげにも見えてきたのは、彼らが長期にわたって進めてきた英語中心のグローバル化路線が岐路を迎えているという現実です。主な学内言語として英語を採用し続けることに潜む困難も伝わってきましたし、世界ランキングのために導入された評価システムの弊害も明らかでした。そうした中で、「東アジアからの新しいリベラルアーツ」を旗印に英語と中国語と日本語のトライリンガルモデルによる教育を展開するEAAに対する注目が海の向こうで高まっているのも、ある意味うなずけます。

香港中文大学崇基学院校門牌楼柱。ミッション系書院の崇基学院ですが、ここには宋代の新儒学に由来する言葉「天地立心」などが刻まれています。
さて、新学期を迎え、わたしたちは学術フロンティア講義「30年後の世界へ」の新シリーズ「変わる教養、変える教養」をスタートしました。ここで紹介したのは、EAAが「象牙の塔」の内側から、大学の壁を越え、国境を越えながら、内外の人々と共によりよい世界を育もうとする試みのほんのごく一部です。この文脈において、「教養」は決して閉じた個人や組織において充足するものではなく、人々と「共に」行われるものであるはずです。「共に“教養”する」ことは、きっといつまでも東アジア藝文書院のスタート地点であり続けるにちがいありません。
石井剛(EAA院長/総合文化研究科)

