【活動報告】第12回学術フロンティア講義 2020年7月3日(金)

2020年7月3日の第12回学術フロンティア講義は王欽氏(EAA特任講師)が講師を務めた。タイトルは「Potentiality and Literature in the Era of Artificial Intelligence」である。タイトルが示す如く、本講義のテーマはAIの開発が進む現代において、文学というものを如何にして考えるかという点にあった。中国の近代文学や近現代の様々な批評理論に通じた王氏は、その語りを昭和日本の代表的批評家・小林秀雄より始めた。

小林秀雄のエッセイ「常識」では、エドガー・アラン・ポーの小説に言及しながら人間と機械の問題を、AIによる将棋のあり様と結び付けて論じている。現在において、AIがチェス、将棋、そして碁を人間以上に上手く打ててしまうことは広く共有されている。その点で現在の技術的到達度それ自体が、小林の当時の見解に対する反論となっている。しかし、技術の止まることのない拡大に直面する中で、機械の持つ正確さや速さとは対称にあるような、文学という古いもの、そして文学を生み出す人間そのものに対する問いは現代においても重要性であると言える。この点を確認した上で、王氏はヒューバート・ドレイファス(1929-2017)へと話を進めた。

ドレイファスは1990年代にAI技術の発展に対する意見として、それが人間によって事前に指示されたプログラムの範囲内でしか動けない点を強調した。AIは事前に設定されたものによって、現時点で生じている事象に対してしか反応できないのに対し、人間はその事象の文脈、過去に発生したこと、そして未来に発生しうることも考慮に入れながら活動することができる。AIが人間という存在に近づけない決定的要因としてこれを挙げるのである。

しかしこの主張も、現在の技術的観点から見れば反論することができてしまう。将棋や碁のAIにも使われた深層学習の技術。AIがまさに人間のように様々な状況を経験することで、事前に組み込まれていない新しいものを自身で獲得していく。ここにおいてドレイファスが論じた人間の能力をAIが習得しているのである。やがて訪れるとされている技術的特異点において、人間と機械の区別は消失してしまうのだろうか。人間の人間たる所以の最後の、そして小さな砦は感情を有するということにしかないのだろうか。

王氏がここで考えたのは人間の生のあり方についてであった。AIが進化させていく能力は、問題を解決する能力である。問題解決能力は人間が生きていく上で当然のことながら重要なものである。しかし人間はその生において、その全てを問題解決に費やしているわけではない。むしろ殆どの場合は周囲の人間関係や生理現象に対する反応に終始する。それは問題解決をし続ける能力を持っていないのではなく、反応としての生をただ単に拡張していくことも可能であることを意味している。アガンベンは『思考の潜勢力』において潜勢力と現勢力という二つの概念を取り上げた。これは単に顕在化しているか否かの違いにあるのではなく、潜勢力というものが、ある主体が特定の能力や行動を現勢化できる状態にありながら、敢えて現勢化させないことを指していることにポイントがある。つまり人間は問題解決のための能力を持ちながら、それを(意識的であるか否かを問わず)行使させないでいることができる一方、AIは問題解決をすることしかできない。人間は能力を現勢化させないという欠如を有する点において、AIとは異なるのである。

AIによるバッハ風の作曲。現在の技術ではAIによってバッハが作曲したような音楽を実際に作り出せるようになっている。音楽の創作という複雑な営為すらもAIは達成するようになった。しかし以上までの話を踏まえるならば、音楽を作り出すAIと作曲家の大きな違いは、その作曲能力の高低にあるのではなく、その能力を有しながらそれを行使しないことができるか否かにある。作曲家は、或いはバッハは、作曲することもできるが作曲しないこともできる。作曲することや問題を解決すること。人間はその様な特定の目的をもった行動もできるが、同時に目的化や命題化されていない事象に反応すること、命題化された事実の外で生きることもできる。AIを人間よりも優れているという考えは、問題解決能力を至上とする評価軸の中での判断であり、人間がAIとは異なり潜勢力を保持すること、つまり能力の行使においてその欠如を同時に有することに対する過小評価でもある。能力があることによって人間を解釈するのではなく、不能である点において人間を解釈する。これが、王氏が様々な思索家のテクストを横断しながら考えたことであった。

そして最後に文学。私たちが現在においても文学を読み続けようとすることは、AIが完成されればされるほど出来なくなること、即ち文学的な無為をそこに見出すからであると王氏は述べる。文学の言語は、日常的に使う言語を昇華したものではない。文学は言葉と現実の関係を一旦切断し、言葉の意味作用それ自体を露呈させることによって、言葉をコミュニケーションのためのもの以外であることを示す。文学の創造や音楽の創造。それらは論理的なつながりや歴史的なつながり、時々の常識が規定する制約から離れ、そういったあらゆるものから解放された瞬間において、偶然的に生み出されるものである。人間によってプログラムされるのであれ、深層学習によって能力を身につけるのであれ、AIは保持している能力を行使し続ける。そこには能力の行使から離れたものは生じてこない。文学という古いものを現在もなお保持するのならば、そのような点においてしかあり得ないのである。

様々なテクストに触れながら展開された本講義は中々に難しいものであったが、質疑に応答しながら王氏が締めくくりとして語ったのは、偶然性についてであった。上で述べた様に人間の創造は様々な既存の文脈から一度離れたその一瞬において偶然生じる。またこれは作曲や建築というある種の特殊な能力だけではなく、私たちの日常的な行動や他者との出会いも全てこうした偶然性に多くを依っている。COVID-19流行の拡大によって移動の制限が大なり小なりなされる中で、如何に人間の偶然性を確保し続けるか。AIの問題はもちろんのこと、これからの人間社会を考える上で非常に重要な講義であった。

報告者:建部良平(EAA リサーチ・アシスタント)

 

リアクションペーパー抜粋

・今回の授業を聞いて、目的意識と日常生活の関わりに自由度が生まれたように感じました。何かに可能性があるということはそれに不可能性もあるということも見逃しがちではあったのですが、出来たことがある行為でもその行為に不可能性が保留されているという考え方が興味深かったです。人の自由には目的を追求する自由と行為を選択しない自由があるのではないかと思いました。 (理科一類~三類)

・今回の講義は今までの講義と比べ物にならないほど難しく、しかし同時に面白いものでした。アガンベンの「潜勢力、現勢力、非の原勢力」の概念と、小林秀雄の、機械学習に対する詳細な分析をもとに、AIと共存するであろう30年後の未来と、文学の可能性を探求したことは非常に印象的でした。自分はこの講義の全てを理解したとは思えませんが、人間には「何かかけているものがあるからこそ人間でいられるのだ」ということを感じ取りました。それは、AIの急速な発展を目の前にする我々にとって、ある種の希望のようなものであるように感じました。AIは進み続けること「しかできない」と捉え直すと、止まったり、忘れたり、間違えたりする人間の「輝き」が見えてくると思います。 今回の講義を通して自分が立てた問いは「どうすればこの講義をうまく自分のものにできるだろうか?」ということです。問いに対するアプローチは、「アガンベンの著作に触れてみる」ということです。実際にアガンベンの世界観に触れてみることで、この講義にある「潜勢力」をより深く体得し、AIの時代に希望を持って臨めるのではないか、と思います。(文科一類~三類)

・潜勢力が現前することができるということだけが能力なのではなく、その欠如もまた非の潜勢力という能力にあるという話は新たな興味深い発見でした。AI時代に人間を定義する際に「する・できること」ではなく「しない・できないこと」に着目することができるのではないかというアイデアは漠然と持っていましたが、王欽先生のお話が一つのヒントになりました。ありがとうございました。(文科一類~三類)