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2020.11.10

話す / 離す / 花す(2)

行き違いを怖れずに

髙山 花子

モーリス・ブランショは、距離のある接触によってわたしたちにあたえられるものがイメージである、と書いている。けっして近づくことのできない、埋めがたい距離があるからこその距離のあるつながり、関係なき関係を、不可能性によって支えられた共同体論として思考してゆくブランショは、物理的に離れ離れになっている遠隔の現況以前に、対面でのコミュニケーションにおいてさえも、距離がある以上、わたしたちは事物に直接到達できず、それゆえにイメージに誘惑されつづけているのだと、何度でも突きつけてくるように思われる。そしてまた、声に出して話された言葉にせよ、文字として書かれた言葉にせよ、言葉はその本質として、わたしから離れてゆくものであることに注意をうながしつづけているように思われる。言葉は空間を彷徨する。すでに発せられた言葉は、なんどもなんども繰り返された過去の言葉の反響の空間にわけいり、こだまとなって彷徨し、ざわめきつづける。

COVID-19の感染が世界的に流行し、大学を取り巻く状況が「遠隔」をキーワードに造られ、語られ、そしてまた、駒場に即していえば、研究も教育も「対面」では感染の恐れがあるために、Zoomを使ったやりとりはいまも継続されている。他方、その裏ではオンラインの予定が乱立し、個々の予定のそれぞれに割ける時間はかぎられ、これまで以上に増えたさまざまな検討事項を、必要な人とじゅうぶんに話せる機会はあまりにも足りない、そのような感覚がある。二月以来を振り返ると、数え切れないほどの電話、メール、Slackでのやりとりを経、行き違いが起こりやすいからこそ言葉を尽くして幾方面からも往還を試み繰り返す大切さを感じる。と同時に、言葉はわたしを離れてゆくからこそ、その離れてゆく言葉が、それきり言い足すことも訂正することもできないまま、誰かに届き解釈されてゆく道筋に思いを馳せることが増えた。わたしから離れた言葉は、それでもなお誰かに届いてしまう可能性がある。だからこそ、言葉を離しているのだと言い聞かせて書く時間が前よりも増えたように思う。

そうして思い出すのは、むかし駒場で行われた講演が縁となり、パリでもお世話になったブリュノ・クレマン先生の編集した『行き違い——解釈学的身振りの系譜学』(Le Malentendu : Généalogie du geste herméneutique, 2003)という本のことである。「誤解」と訳されることの多いフランス語のmalentenduは、コミュニケーションや相互のやりとりの障害、行き違いを指す。この論集は、出版当時の社会科学の側からの「誤解」への新たな着目にも目配せをしながら、文学における注釈や文献解釈と、一元論的ドクサ形成のエピステモロジーを踏まえて、「行き違い」を再考することを目的としている。寄稿しているジャック・ランシエールは、政治的な食い違いとおなじく、文学の行き違いもまた、言葉と物の隔たり、身体と意味作用の結びつけにかかわることを確認し、文学は辞書編纂では禁じられている行き違いを選び取ることを学ばせてくれるのだと結んでいる。そしてクレマン先生は、神託が伝達の過程で誤解を生み出すのではなく、行き違いこそが神託を形作るのだとして、古来、語りの本質がフィクションをつくりあげることにあり、このmalentenduがいまもなお、言葉と思考の分かち難い関係を物語っていることに注意を促している。両者の論の底に流れるブランショの思考をいま再度くみとるならば、わたしから離れてゆく言葉の彷徨する「文学空間」は、かならずしも小説テクストにかぎられず、すぐそこにある、言葉の飛び交う日常の空間でもあるはずなのである。そうして開かれた思考の空間-スペースでは、単独の決定的な解釈は斥けられる——。だからこそ、これからもなんどでも、行き違いを怖れずに言葉を離してゆくことを試みる、そのようなプロセスそのものをここに創ってゆければと願う。

photographed by Hanako