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2020.12.01

話す / 離す / 花す(4)

「人間は知性を従えた意志である」

石井剛

 今年の年始め、『教養学部報』にEAAを紹介する記事を書かせてもらった(第615号、2020年1月7日)。その冒頭では「大学の教員たる者、自分が知らないことを学生に教えなければならない」と書いてみたのだが、あっさり白状すると、このことばは小林康夫さんからの受け売りである。そして、小林さんがこういう考え方をどこから得たのか、わたしは尋ねてみたことがない。明らかに正しいことに典拠があるのかどうか聞くのは野暮である以上に愚かだからだ。しかし、その後わたしはジャック・ランシエール『無知な教師 知性の解放について』という著作があることを知り、その中でも「知らないことを教える」ことがいかに可能であるかがくり返し説かれていることを知る。

 だが、ランシエールが説いているのは「知らないことを教える」ことのできる条件であって、彼はただ単に大学の教員が自分が知らないことを教えればいいと主張しているのではない。端的に言って、「知らないことを教える」ことが可能であるために、まず何よりも学ぶ者たちの知性が解放されていなければならない。解放された知性に相対するときにおいてこそ、それは可能となるというのである。知性が解放されるために必要なことはシンプルだ。それは、「すべての者が意志する人間として同類であり、したがってその限りにおいて平等である」という前提に立って人に向き合うことにほかならない。同時にこのことは、人間が誰でも平等にことばの本来の意味でのphilologistであることを意味しているはずだ。ここでわたしは18世紀の文献学者アウグスト・ベークが、文献学(フィロロギー)とは、「認識されたものを認識すること」を旨とする学問であると定義していることに倣っている。ランシエールは、人間とは「見るものを吟味する存在」(55ページ)であると定義している。「意志」というのは、見ること、手で探ること、そしてそれらが感じ取ったものを比較することであり、それがすべての知性の始まりであり、しかもそれこそは、今日「文献学」と呼ばれている学問の原初をかたちづくっていた。同時に「意志」は、「望む」(これもまたEAAの目指す新しい学問を支えるキーワードだ!)という人間の人間たる所以を保障する能力であると言い換えることも可能な概念である。

 唐突だが、『論語』のなかで孔子は「上智と下愚とは移らず」と述べている(『論語』陽貨)。このことばはあたかも、どんな環境でも立派になる最も賢い人間と、どんな環境でも学ぶことのない最も愚かな人間の2種類がいると断定して、エリートと愚者とを分け隔てる選民思想を反映しているかのように思えるかも知れない。しかし、18世紀の戴震は別の見方をしている。すなわち、孔子は「移らず」と言っているだけで「移せず」とは言っていないのだから、同じ人間である以上、学ぶことができないはずはないのだ、と述べている(詳しくは、拙著「中国における感情の哲学」、『世界哲学史 6』を参照してほしい)。ランシエールと同じように、戴震もまた、意志の問題を問うことで、人間の平等であることをとことん考えようとしたのだと言えるかもしれない。

 しかるに、翻ってわたしたちの社会を見ればどうだろう。知識を他の人々よりも多く占有している者がしたり顔で教師となって他の人々に対する説明者となることで、知的に無能な者の再生産に努めているのがわたしたちが今いる世の中ではないだろうか。そこでは、知性の根本が「意志」と「望み」であることをとうの昔に忘れてしまった人間たちが、あたかも自分だけが解放者であるかのように振る舞いながら、実際は人々を支配と従属の道へと導いているだけではないだろうか。ランシエールはこうした問いを厳しくわたしたちに突きつけている。もしもそうだとすれば、解放されるべきなのはまちがいなく、「意志」も「望み」も忘却してしまっているにもかかわらず、知の創造に従事できると盲信してしまっているわたしたち自身である。「知らないことを教える」ということばの持つ正しい意味を、わたしたちひとりひとりの「望み」において問い直し、咀嚼し直すこと。そこからしか「新しい学問」は生まれないだろう。

 さて、このエッセイを締めくくるに当たって、ランシエールもやはり「離す」ことの意味を深く理解している哲学者であることを示す箇所を『無知な教師』から引用しておきたい。

  人間が結びついているのは人間だから、つまり隔たりあう存在だからである。言語は人間を一つにまとめはしない。それどころか、言語の恣意性こそが、人間に翻訳することを強い、互いの努力を伝え合うようにさせる——そしてまた共通の知性を行使させる——のだ。人間というものは、話をしているものが自分で何を言っているのか分かっていないときには、とてもよくわかる存在なのだ。(87ページ)

2020年12月1日


photographed by Hanako