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2021.07.01

【報告】2021 Sセメスター 第10回学術フロンティア講義

2021年618日(金)、10回目となる学術フロンティア講義がオンラインで行われた。今回の講師は、東アジア思想史・文学を専門とする林少陽氏(香港城市大学)で、講義題目は、「清末中国のある思想家の憂鬱──章炳麟の「進化」論批判」であった。

章炳麟について
章炳麟(1869-1936)は、1911年の辛亥革命の理論家である。仏教と老荘思想に基づく思想により西欧思想と対峙し、帝国主義や植民地主義を批判した。東京で発行された革命団体の同盟会機関紙『民報』の主筆も務めていた。『民報』発行期であった1907年には、弱小民族を解放し、帝国主義に反対してアジアの連帯を掲げた連合である「亜洲和親会」を設立する。
章炳麟の「進化」に対するユニークな批判
章炳麟は、ヘーゲルからスペンサー、ダーウィンに連なる西洋の「進化論」を批判した。19069月に『民報』に掲載されたエッセイ「倶文進化論」では、人類が無限に進化すると考える西洋の進化論に対抗し、進化は一方の直進ではなく双方の並進によるものであると主張した。善が進化するならば悪も進化し、楽が進化するならば苦も進化するという。章炳麟は、善悪・苦楽の並進を解くことで、進化論の楽観的な構図を批判したのである。
さらに彼は、少数派・弱者への圧迫や束縛を正当化する「四惑」(公理、進化、唯物、自然)の一つとして進化を位置づけ、進化による個人の抑圧を批判し、個人の自由を主張した。
個人を尊重する章炳麟の思想は、国家や民族主義に対する彼の考え方にも通じる。章炳麟によれば、個体にこそ「主体」があり、国家は幻にすぎない。そして愛国心は、強国にはあってはならず、弱国ではなければならない。なぜなら、弱い国の人は愛国心を持たなければ、帝国主義に侵略されてしまうためであるという。「完璧な民族主義」とは、弱いものに対する同情に基づく国際主義でなければならないという章炳麟の思想が反映されている。

章炳麟の議論から、110年後の我々が「30年後の世界」を想像する
以上のように章炳麟は、西洋的な帝国主義・植民地主義への対抗として、国家や団体の主権を主張するのではなく、アジア民衆の「自主」や個人の「主権」を主張した。総括として林少陽氏は、約110年前の章炳麟の憂鬱な予感は、現在、我々の現実になりつつあると述べ、「近代」や「進化」に対する章炳麟の批判は、我々の「30年後の世界」の想像にどのような示唆を与えてくれるのか、という問いを投げかけた。テクノロジーの発展こそが軍事力を意味してしまうことの怖さや、国家中心的な考え方に関する問題、「進化」による環境破壊の問題などが挙げられ、活発な質疑応答へと続いた。

報告:石井萌加(EAAリサーチ・アシスタント)

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)本日の講義では現代、そして30年後の世界を考えるにあたって非常に示唆的な論点がいくつも示されましたが、その中でも特に国家のあり方に関する議論が印象に残りました。
章炳麟の国家に対する姿勢は、講義の途中でも指摘された通りハンナ・アーレントのnation stateに関する議論が想起されるところがある一方で、おそらく帝国主義の侵略の只中にあったからこそ生まれ得たのであろう弱国と強国の区別、それぞれにおける「国家」の意味づけの違いというユニークな部分も備えている点が非情に興味深かったです。そして、「愛国心を持ってはならない国」の存在を考えた時に、では30年後の国家のあり方として、いったいどのような形が考えられるのだろうか、という問いが浮かびました。
ひとつには、講義後の議論で質問者の方や石井先生がおっしゃったような、福利や再分配を主たる役割とする互助的なあり方があり得るかもしれませんし、またひとつには、EUのようなより大域的でゆるやかな繋がりに吸収されていくという可能性もあるかもしれません。いずれにしても、世界的なパンデミックに対して協調して向き合うどころか、ますますナショナリズムが肥え育つような現代の国家のあり方は、まさに「持つべきでない」愛国心に振り回され、すでにその限界を露呈していると言わざるを得ない状態であり、新たなあり方を探るべきステージに達しているのは明らかです。そのような意味で、国家のあり方というのは、まさに、30年後の世界のあり方を決める1つの重要なファクターになってくると思われます。
昨年のこの授業で羽田先生が指摘された「「地球市民」としての帰属意識」の醸成という問題も意識しつつ、この問題を考えていきたいと思います。(教養学部・3年)
(2)授業後「俱分進化論」を軽く読みました。章炳麟が革命家であることを割り引いてもなおその言説の鋭さや勢いというものを感じました。一方で、善と悪を双対的で並進すると捉えることに対しては、検討する余地があると考えます。どの段階においても善と悪がゼロサム的であるとするならば、段階を進める意義が薄れてしまうのではないか、ともすると、未来に対する諦念が生じてしまうのではないか、との懸念を抱きます。ある種、比較的段階の進んだ側――“文明的”な側――だからこそ、このような見解が生まれているのではないか、と思います。そうであるならば、「弱い」側に対する視点が欠けており、結局は「進化論」を抜け出せていないのではないかと感じます。(教養学部・3年)
(3)章炳麟による進化論に基づいた社会の進歩主義的な見方への批判や、国家や共同体といった幻想を自明視しすぎないという姿勢は今となってはしばしば耳にする言説となっているが、東洋における先駆け的存在であることを踏まえると興味深かった。特に林少陽先生が指摘した従来の政治哲学が国家を前提としていることと章炳麟の思想との対比に強い関心を持った。確かに私が知っている限りでの伝統的な政治哲学では、共通の基盤(国家や共同体)を持った市民間での正義観念が議論されていた。しかし特に環境問題の文脈において必ずしも共通の基盤を持たない人々(将来世代や多国間)の間での正義観念が問題となり、従来の政治哲学の改善が求められている。そういった中で章炳麟の個人に目を向けた思想が政治哲学のアップデートの参考になりうるのではないかと考えた。
また、林少陽先生がおっしゃった民主主義は戦争に勝ちやすいということに関しては、民主主義というシステム自体が戦争を起こしづらくしているという考え方もあり、民主主義を戦争との関わりをもう少し精査したいという風に思った。(文科三類・2年)