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2021.11.01

【報告】東京⼤学グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ(GSI)キャラバンプロジェクト「主権の諸条件」第2回ワークショップ

20211016日、東京⼤学グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ(GSI)キャラバンプロジェクト「主権の諸条件」第2回ワークショップがEAA共催のもと開催された。1回ワークショップのジャック・レズラ氏に続き、今回は韓国よりキム・ハン(金杭)氏(延世大学)をお招きした。キャラバンを率いる國分功一郎氏をはじめ、キャラバンメンバー諸氏(中島隆博氏、石井剛氏、張政遠氏、王欽氏)の多くがキム氏と長年に亘り研究交流を深めてきたという背景から、会は和気藹々とした雰囲気の中進行した。

國分功一郎氏

キム・ハン氏

「立憲的ポピュリズムと軍事クーデター:韓国現代史における人民主権」と題された講演の中で、キム氏は現代韓国の憲法学者であるハン・テヨン(韓泰淵、1916-2010)の思想を出発点として、「人民主権」と「ポピュリズム」の関係性について分析を行った。

キム氏によれば、ハン・テヨンに象徴されるように、1910年代後半生まれの世代は韓国現代史において重要な役割を果たしてきた。学徒出兵、あるいは陸軍士官学校を卒業するなどして日本軍として先の大戦を戦った経験を持つこの世代のエリートは、1945年以降のネイション・ビルディングの中核を担ってきた。ハン・テヨンは1943年早稲田大学を卒業し、1946年以降、ソウル大学や成均館大学の教授を歴任した。パク・チョンヒ(朴正煕)による1961年の軍事クーデター後、国家再建最高会議法案を案出し、また、1972年の維新憲法起草に参加したハン・テヨンは、まさに軍事政権の「桂冠法学者」と言うべき存在であった。

日本留学時代に影響を受けた法学者・黒田覚(1900-1990)の問題意識を引き継いだハン・テヨンは、ハンス・ケルゼンの法実証主義とカール・シュミットの政治主義という対立を乗り越え、いかにして法と政治を総合的に取り入れた主権理論を構想するか、という問いを抱いていた。別言すればそれは、「人民」が主権者として存立するための条件を探究する営みであった。このとき彼の念頭に1930年代の日本における総動員体制の経験があったことは特筆すべきことであろう。

人民を主権者として召喚することへの欲望は、次の二つの大きなうねりを背景として理解する必要がある。すなわち、議会を中心とする制度的民主主義への熱望と、議会への不信・直接民主主義への熱望との対立である。ハン・テヨンの憲法思想は、後者のうねりによって後押しされ、また、このうねりに正統性を与えるべく展開された。制度の形骸化に抗う人民の蜂起という物語の中で、法的フィクションとしての「人民」は分割不可能な単一体として想定される。1948年以降、韓国は幾度も憲法改正を経験してきたが、この改正はこうした「人民」を前面化することによって可能であったのではないか、言い換えれば、韓国の憲政史は「人民」という誘惑の前面化の歴史として捉えうるのではないか、とキム氏は指摘した。ハン・テヨンとはまさに、こうした文脈下においてポピュリズムと憲法に正統性を与えようとした人物であった。

ところが、ここには「人民」をめぐるある種のパラドックスが存在していた。パク・チョンヒによる軍事クーデター直前、イ・スンマン(李承晩)体制に対する蜂起として、学生・市民によるいわゆる「4月革命」が起こった。この革命下では大統領制=独裁という認識のもと、その対抗軸として議院内閣制が志向されたが、ハン・テヨンはこれを時期尚早であると考えた。彼の議論によれば、イ・スンマンによる独裁は、大統領制という制度のなせる業ではなく、「国民」が欠如していたがために生じた。同様に、4月革命による議院内閣制によっても、カール・シュミットが言うような「人民」を十全に顕現させることは不可能である、とハン・テヨンは考えた。

では、「人民」を顕現させるためには何が必要か。ハン・テヨンは次のように論じた。「人民」が未だ顕現されないのは、かれらが未だ動物的生命の維持のために生きているからである。裏を返せば、物質的基盤を整えること=「オイコノミア(家政)」を充実させることこそが「人民」が顕現するための条件である。つまり、キム氏の指摘によれば、ハン・テヨンにおいては、統治機構が人民主権によって正当化されるのではなく、人民主権が統治機構と経済発展のなかで初めて遂行的に自らを確認できる、というロジックになっているのだ。ここでは、主権をめぐる議論、あるいは憲法をめぐる法的議論が宙吊りにされ「オイコノミア」が全面化しているのだが、キム氏は、ハン・テヨンの議論においては、まさにこの宙吊りのなかでのみ「人民」主権が可能になる、と分析した。つまり、人々を動物的生命から「人民」へと引き上げるために「人民」と指導者の絶対的一致が必要であるというロジックのもと、「人民」を国家によって食わしてもらう「巨大な家畜」として思念するというパラドックスが生じるのである。

ここから、次のような命題が導出される。ハン・テヨンが創出した論理において、「人民」主権とは、「政治」ではなく「オイコノミア」の相関物である。これは、ポピュリズムをめぐる問題の根幹に関わる命題である。すなわち、ポピュリズムとは、単に軍事独裁や全体主義との相関において思考されるべき現象ではなく、「オイコノミア」の全面化として把握されるべきものである。換言すればそれは、民主主義の病理ではなく、常に潜在する民主主義の一極であるのだ。

「人民」あるいは「人民主権」を「オイコノミア」から切り離すことができないのだとしたら、いかにすればよいのか。キム氏は「主権なき民主主義はどのように構想可能か?」という問いを実験的に提示した。この問いかけに対し全体ディスカッションでは、様々な応答がなされた。例えば中島隆博氏(EAA院長)は、ハン・テヨンにおける「国民」概念と「人民」概念の相違を丁寧に抉出した上で、彼がどのようなタイプの「人民」を求め、逆に、どのようなタイプの「人民」を避けようとしていたのかを探る必要があるのではないか、と指摘した。また中島氏は、「主権」を従来の分割不可能なものとしてではなく、分割・分有(パルタージュ)可能なものとして構想する可能性について示唆した。

1930年代の日本社会の情勢、そして軍事クーデター後の韓国社会と、現代の我々が生きる世界との間に、どれほどの距離があると言えるだろうか。時を経て投げかけられた現在的問いを思考することの重要性が確認されたひとときであった。

報告者:崎濱紗奈(EAA特任研究員)