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2021.01.04

話す / 離す / 花す(7)

連歌の道と人倫の道

張政遠

 新年明けましておめでとうございます。前々回、前野さんが連歌を紹介しましたので、それについてリレーしようと思います。

 日本では「講書始の儀」という行事がありますが、和辻哲郎(1889-1960)が進講者として招かれたのは1943年でした。太平洋戦争という時勢の中、和辻は西洋哲学ではなく、敢えて「心敬の連歌論について」と題して講義したのです。連歌について和辻はその本質を「個人の制作にあらずして、「連衆」すなわち団体の共同制作たること」としました。古代ギリシャの叙事詩は「長年月にわたり幾人かの吟唱詩人の手の加われるものも、二千年にわたり一人の詩人の作」であることに対し、連歌は共同制作だから「他者に対する尊敬、理解、同情、これ前句に対する態度」が求められると論じていました。例を挙げておきましょう。

霜のふるまがひに露や消えぬらん 忍誓

はま風さむしすみの江の月    心敬

前句(忍誓の歌)に「霜」という表現があり、これは寒い気候を意味します。「前句に心をくだくべきこと」ということで、後句には「寒しい浜風」が詠まれました。連歌になった時点で、二つの歌が纏まったのみならず、二人の歌人が結ばれたと言えましょう。換言すれば、連歌は単なる歌の創作ではなく、人間関係の実現です。和辻が引用した心敬の言葉は次のとおりです。

「前句と我句との間に、句の寄持、作者の粉骨はあらはれ侍るべし」

「連歌は前句をきかでは、いかばかりの玄妙の句所詮なくや」

「わが句を面白くつくるよりは、他人の句をあきらめ侍るは、はるかにいたりがたし」

連歌を作るには、自我の心を抑圧する必要があります。また人間としては、無私であることが必要です。無私とは単に自己を否定し、他方を完全に受け入れるのではありません。和辻によれば、自分を捨てることは自分の性格を否定することではなく、個性を生かす技法です。ただ「付和雷同」だけでは、よい連歌にはなりません。例えば、梅や桜という前句に花を関連付けることは「満座同心」(全員が賛同する)になりますが、無知蒙昧です。

 さらに、心敬は「親句」と「疎句」について論じましたが、和辻はこう述べています。

親句とは、前句とわが句との句境互いに親縁を有し、その連絡明白なるをいう。疎句はこれに反し前句とわが句と無縁なるがごとく相離れ、句境おのおの独立せるも、その間深く心を通じ、微妙に連絡せるをいう。心敬はこの疎句を「あらぬさまに継、ぎたるもの」と呼び、これを親句よりも重んず。『ささめこと』においては両者を比較して、「親句は教、疎句は禅。親句は有相、疎句は無相。」「有相親句の歌道は無相法身疎句の歌の応用なるべし」など言えり。

ここで重要なのは、私たちが自分自身に執着し、他者との一体性を忘れてはならないということです。しかし、私たちは他者に付和し、私たち自身の性格と創造性を失うべきではありません。連歌のやり方は自己の克服であり、心無所着です。心敬が『ささめこと』の中で『論語』を引用した箇所にはこうあります。

 君子周而不比、小人比而不周(君子周して比せず、小人は比して周せず)

「連歌の道はすなわち人倫の道なり」と論じた和辻は、「わが国の芸術のきわめて特殊なる一面を闡明し得ること」「芸術の理論に新生面を開き得ること」「人倫の道の考察に際し有力なる実証を提供し得ること」という三つの方向に新しき道を開こうとしました。

 私は歌人ではありませんが、人倫の道を歩む者として連歌論を吟味したいと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。

2021年1月4日

photographed by Hana