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2020.12.30

話す / 離す / 花す(6)

未来へのリンク

髙山花子

過去のテクストのある言葉に対して未来のテクストから注釈を施すことをミニマル要件として課す——「話す / 離す / 花す」の使用の手引きを読んで、このリレー形式のエッセイが、単なるリレー連載ではなく、なにかしらのルールを持つ言語遊戯の性格を帯びていること、それも複数人で創り上げる共同制作の側面を有していることを、印象として受け取った人々がいるようだ。上の句と下の句を異なる人たちが次々と歌い繋げてゆくことで出来上がる連歌、複数人が互いの手を見ずにそれぞれ作った詩行あるいは絵画があとから繋がった形で表れ一つの作品を創り出すシュルレアリスムの甘美な死骸(le cadavre exquis)、いっそう身近な言葉遊びとしては、まえの人の言った単語の最後の文字からはじまる単語を言ってゆくWord chain、しりとりが、ルールによって言葉の繋がりを担保しながら複数人で言葉を紡ぐ例として挙げられるだろう。書くときは一人きりなのに、自分から切り離された言葉が思いがけない形で他者の言葉と繋がることを、わずかでも確かめながら、あるいは、未来へのリンクがこのテクスト上に生まれるかもしれない、と考えながら、氾濫する言葉の喧しさと、思うようにコミュニケーションの図れない隔たりの中で、思考を書き残し、パスしてゆく契機となるささやかな〈場〉になれば、と願っている。

四月以降をふりかえって、もっとも心に残っている言葉のひとつは、オンラインワークショップ「石牟礼道子と世界を漂浪く」の基調講演で、宮本久雄氏が芭蕉の『野ざらし紀行』の中の一句「山路きて何やらゆかしすみれ草」をめぐって述べた言葉である。氏は、宇宙のはじまりから、現在に至るまでの時間とエネルギーのすべてがあってはじめてこの一本のすみれ草の命が咲いた、そのエネルギーを読み取って芭蕉は俳句にしたのだ、と述べた。事件が起こるとき、すなわち実際の出会いが起こるときに、出会った相手との対話によって生じる「事言葉」を説明するものだった。

命の懸かった状況で、目の前の、離れた人の無事を切に願いながら、言葉を飲み込むことも少なくない一年だった。まだしばらくはつづくこの混沌の中で、ともすればゼロになり、あるいは見逃されてしまう出会いと、それに伴い生まれる言葉の行き交いを、それでもなお、絶やさずにいたい。絶やさずにいるための方途をひとつひとつ、探ってゆきたい。未来へのリンクを貼ることはそのひとつであると思っている。

2020年12月30日

photographed by Hanako