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2022.02.07

映像制作メモランダム(12)

映像制作プロジェクトに関わるようになったのは去年の8月なかばのことだ。20223月完成を目指す映画制作の撮影を担当してもらえないかという連絡があり、そのすぐあとの8月末には撮影が始まった。撮影開始から7ヶ月が過ぎもうすぐひとつの映画作品として『籠城』の制作行為が象られようとしている。

撮影の現場に立ち合った者として映画『籠城』が出来上がるまでの過程を振り返ってみようと思うのだが、今もっとも不思議に感じられることは、当初は制作者たち自身でさえ作ろうとしている作品の全貌を掴みきれていなかったそのものが、数ヶ月の制作期間の過程で次第にかたちを現し、今やひとつの映画作品として世に提出されようとしているという事実だ。私は確かに撮影の現場にいたにもかかわらず、いつどの時点で作品が今のようなかたちを持つに至ったのかを確定することはとても難しいと感じる。おぼつかない手つきで、手探りで、制作を進めていくうちに、いつのまにか作品がかたちをもって私たちの前に現れはじめた、という言いかたの方がよりこの数ヶ月の制作経験に合致するのではないかと思う。あらかじめ結論の見えている、収まるべき完成地点の予測できている、定められた範囲内でそつなくこなすべき間違えようのない安全な設計プランのある、『籠城』の制作はそのような映画制作ではなかったと思う。そして私は、このような映画制作のあり方はとても研究らしいものだった、と感じている。

映画制作は最初、小手川さんと高原さんの脚本の共同執筆、制作全体を記録する日隈さん、そして進行を管理するプロデューサーの髙山さんという4名の主要メンバーによって、映画の主題となる一高の歴史を調査する入念なワークショップを重ねながら進められていた。そこに撮影者の私が加わり、声の出演者の金城さん、安原さん、永澤さん、新田さん、宮城嶋さんが加わり、身体の出演者の乙幡さんが加わった。そして音楽の久保田さん、福田さん、サウンドデザインの森永さんと、制作に参加する者が増えるたびに主題に対する議論が積み重ねられた。映画制作においてなされた議論の多くは、旧制一高に培われた閉鎖的な規範意識、それによって醸成された歴史を現在時に生きる私たちがいかに継承していくのかという問いのために割かれた。新しい参加者はこれまでなされたものとは異なる意見を提出したし、監督と脚本を担当する小手川さんはそのたびに深く再考し脚本を書き換え、こうした過程ゆえ映画はもはや誰か一人だけの思考や判断によって形成されたものではなくなっていった。

制作のための多くの時間は、対象に眼差しを向けること、声をきくこと、その声を頭の中で反芻すること、自分や周囲との対話によって生まれる思考のゆくえを見つめ、注意深く目の前にそれを並べてみること、として費やされた。たとえば8月当初、脚本は、主人公「わたし」の声を2名の男性の声が互いに自己の分身に語りかけるようにモノローグで語るという設定で書かれていたが、議論の末、声の出演者は男女の限定なく募集することになった。応募者18名の声を聞いた結果、制作チームは男性3名女性3名の声の出演者を選んだ。ひとりの男子学生の内省的な語りを男女混成の声で聞かせる手法をとることで、形式や規範に否応なく囚われてしまう社会的属性としての男性の弱さ、というこれまではっきりとは見えていなかった旧制一高を取り上げるうえでのもうひとつの論点が、輪郭を持ちはじめることになった。読み合わせや撮影が行われるたびに、作品は当初持っていたかもしれない仮の輪郭を捨てながら、変形しつづけた。そして制作者たちは、一高の歴史を継承するあり方を問うこの映画の主題の延長線上に自らを歴史継承の当事者と捉えながら、研究者は研究において研究対象と向き合うことと個人の実存に向き合うことは極限的には分かつことができないものではないか、という問いさえも共有した。このような方法で『籠城』制作にかかわった者たちが行ったことは、たんに一本の映画を制作したのではなく、それぞれの研究領域で異なる問いを抱えた研究者たちを包摂する共同研究だったのだと思う。

映画制作という研究実践には、成果物が映像化されるという最大の利点があるだろう。『籠城』制作に関わった者たちの多くは映画制作に関してほとんど未経験であり、だから一般的な商業映画制作の作法から言えば撮影を当初の脚本通りに進めないという時点でありえないような失態を犯しているのかもしれないのだが、しかしその一方で多くは現役の研究者でもあった。この映画制作は、うまく形作られた映画作品を完成させることを至上命題としたのではなく、むしろひとつの映画を共同で作るという営みをとおして異なる領域の者たちが対話を繰り返すという、これまで試したことのない研究方法の探究でもあっただろうし、探究のなかで発見されるものによって前進する共同研究のためのプラットフォームとして実装されてもいただろう。だからこの研究実践においては、制作過程で「対話」によって編まれた時間の軌跡が像を結び映画作品となっていくのであり、それゆえこの映画にはその下層において研究の過程が記録されるのだと思う。

 

8月の駒場博物館でのテスト撮影時

11月の駒場博物館での本撮影時

 

報告・撮影:一之瀬ちひろ(総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程)