プロジェクト
学術フロンティア講義「30年後の世界へ」

【開講情報】学術フロンティア講義「30年後の世界へ——「共生」を問う」(2022年度Sセメスター)

 東アジア藝文書院(EAA)では2019年度の「30年後の世界へ――リベラル・アーツとしての東アジア学を構想する」、2020年度の「30年後の世界へ――「世界」と「人間」の未来を共に考える」、2021年度の「30年後の世界へ——学問とその“悪”について」につづき、新年度の2022年度も学術フロンティア講義を開講いたします。

【開講趣旨】(ページ中段)

【各回の授業題目】(ページ下段)

【リアクションペーパー】(ページ最下段)  

 【科目情報】
2022年度Sセメスター
 学術フロンティア講義「30年後の世界へ——「共生」を問う」

金曜5限(午後5時05分から6時35分)・21KOMCEE East K011

教養学部前期課程主題科目/教養学部後期課程高度教養特殊講義(東アジア教養学)
 ※ 履修・授業に関する詳細な情報については「UTAS」よりご確認ください

 ※ 授業フライヤー PDF版ダウンロード

【開講趣旨】
 東京大学 東アジア藝文書院(East Asian Academy for New Liberal Arts, EAA)は2019年度以来、教養学部で「30年後の世界へ」を共通テーマとするオムニバス講義を行ってきました。「30年後の世界」は具体的に今日から30年後の世界のことを指しているわけではありません。受講者のみなさんが社会の各領域で中心的な役割を担っているであろう未来のことを象徴的に表すものです。そこに至るまでの道のりは、みなさん一人一人が自分で、そして他の誰かと手を取り合って歩いて行くものです。未来はしたがって、みなさんの外側からやってくるものではなく、みなさんがわたしたちと共に創りあげていくものなのです。「30年後の世界へ」とはつまり、みなさんが自身の未来を想像するための手がかりとなる言語を探す旅の始まりを劃すわたしたちからの呼び声にほかなりません。教養とは持てる知識の量的な豊かさではなく、未来を創りだすために必要な言語を不断に鍛え続けるプロセスのことを指すと、わたしたちは考えます。
 2022年度の講義では「共生」という概念について問い直してみます。
共生ということばが使われるようになって久しくなりました。人、文化、社会、技術、自然などの様々な領域において、「他者」と名指されるあらゆる存在と共生することが、わたしたちの目指すべき理想の姿であるとされます。
 このことばは、生物の世界において異なる生物種が相互依存の関係にあることを示すsymbiosisに通じると理解されることがあります。したがって、実は共生とは、わたしたちが目指すべき社会の理想である以前に、わたしたちがこの世界にあって生きていることの前提条件であり、既存の事実であると言うべき状態のことなのです。しかし、共生が自然界における厳然たる事実である以上、それは、赤裸々な無道徳の世界のありようでもあり、そこで表現されるのが全的な調和であるとしても、その中には個体の死滅や個体間の生存をかけた闘争が不可欠なメカニズムとして組み込まれています。まして、人新世と呼ばれる近代文明は、生物としての人の生を管理しながら延長することを倫理的な要請としつづける一方で、自然界における生物の多様性を著しく損なっています。そんな中で、持続可能性を探究することがいまや世界的な課題であると見なされています。しかし、SDGsのかけ声は、人間の類としての生存(したがって人類内部の共生)を持続的に可能にするだけのものに終わってはならないでしょう。その声は、生命を持つあらゆる種との共生を望むもう一つの声によって応答されるべきでしょうし、いまはまだ世界に存在していない者の声をも喚び起こすものであるべきです。ましてや、
持続すべきものが近代文明によって生み出されたさまざまな現実のレベルに留まっていては、それは近代文明を享受する一部の人びとの独りよがりに終わってしまいかねません。要するに、単なる持続を追求するのとは異なる、新しい人間の生のあり方が真剣に問われるべきであると言うことができます。
 しかし、そんなことがいかにして可能になるのでしょうか?生物の世界における共生関係が
示しているのは、生が死と共にあるというきびしい現実にほかなりません。だからこそ、あるべき共生について考えるためには、生が死と一対のものであることを無視することはできませんし、全的生存のために犠牲を正当化する構造を人間が創りだしてきた現実への反省が求められるはずです——この反省は日本から東アジアに向かって共生を唱えようとする場合にことさら重要な当事者責任において行われるべきです——。新しい冷戦の到来とも言われる今日の世界情勢のもとで政治社会がいかにあるべきかを考え、また、テクノロジーの発展の先にあるべき人のあり方を構想するためにも、わたしたちは、「他者」なる存在と共によりよく生きるための思索をこの世界に生を受けた人間の責任として深め、想像力を豊かにしていく必要があります。
 共生を事実としてそのまま理想化するのではなく、既存の思想の枠組みの中であるべき姿を構想するのでもなく、このことばとそこから派生する一連の言語を問い直すことを通じて、わたしたちが生きるべきよりよき生のあり方について、いっしょに考えてみることにしましょう。

【各回の授業題目】
第1講 4月8日 初回ガイダンス 

第2講 4月15日 青山和佳(東洋文化研究所、東南アジア地域研究)
「共生をめぐる小さな自伝的物語り」
 「共生」を脅かすものとして、「他者の他者性を奪う」という暴力がある。本講義では、個人対個人の次元で生じた暴力とその後に関するひとつの個人的な経験を、自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)の方法に準拠しながら物語る。そのことを通じて、共生の困難さとそれゆえの可能性という両義性を伝えるとともに、参加者にとって「共生」をめぐるさまざまな物語りを自分ごととして考えるひとつの材料を提供したい。

第3講 4月22日 星野太(総合文化研究科、美学・表象文化論)
「いかにして共に生きるか──「食べること」と「リズム」について」
 いかにして共に生きるか。これは、フランスの批評家ロラン・バルト(1915-1980)が晩年に取り組んだテーマの一つであった。バルトはこの「共生」というテーマを完遂する前に急逝したが、本講義では、残されたバルトの講義ノートと録音データをもとに、そこからいくつかの重要な問いを引き出すことを試みたい。とりわけ、そこでバルトが用いている「イディオリトミー」という謎めいた概念に着目し、おもに「食べること」と「リズム」について考察する。

第4講 5月6日 呂植(北京大学、生物保護学)
「Living in Harmony with Nature: Is It Possible And How?」
 Living in harmony with nature by the year of 2050 is the vision of Convention of Biological Diversity while the global biodiversity continues to decline. Over 190 parties are in the process of developing a Post 2020 Global Biodiversity Framework, which will include conservation targets for 2030 and 2050, after most Aichi Targets failed to be met. The vision, together with the framework, will greatly influence the way we live on earth. Is such a vision realistic? How are we going to achieve it while keeping in mind that conservation actions should not compromise the rights of developing countries where most biodiversity concentrates. China is a country with a large divergence between the east and the west in terms of economic development and biodiversity distribution, almost an epitome of the world situation. Professor Lü Zhi, a professor of Conservation Biology from Peking University and founder of Shanshui Conservation Center, will share her insights and case studies on how these challenges could be dealt with.  Professor Lü Zhi has worked in the field of nature conservation for over 30 years. her work covers multiple-disciplinary researches and bridging academic research and practices, including on endangered species such as the giant panda and the snow leopard as well as on biodiversity recovery in urban areas. In recent years her focus is on mechanisms of coexistence between human and nature.

第5講 5月20日 ユク・ホイ (香港城市大学、技術哲学)
「Beyond the Organismic Metaphor, or Philosophy after Cybernetics」
In Recursivity and Contingency [2019, Japanese translation 2022], I tried to show how the opposition between mechanism and organism and the overcoming of the former by the latter characterize the modern Western thought from Kant (or from Leibniz according to other analysis, for example Joseph Needham) to Norbert Wiener, and therefore it constitutes what I termed an organic condition of philosophizing. Symbiosis, a term introduced in the late 1870s, belongs to such organismic thinking, according to which, two or more unlike named organisms form reciprocity and a community between themselves, which also underlies one important aspect of evolution. These two terms reciprocity and community are also employed by Kant to describe the operation and structure of an organism (§64, Critique of Judgment) and later by Hannah Arendt to formulate a Kantian political philosophy (Lectures on Kant’s Political Philosophy). The development of the organismic thinking in biology and its realization in cybernetics and systems theory in the 20th century seem to have concluded this condition of philosophizing. The term symbiosis was also employed beyond the domain of biology towards a bio-technological (and planetary) complex, for example, Joseph Licklider (1960) proposes an intimate man-computer symbiosis; James Lovelock and Lynn Margulis puts symbiosis at the core of their Gaia theory. I will attempt to show in this talk, how this organismic thinking which characterizes the paradigm of modern Western philosophy might have come to close, in what Martin Heidegger calls the end of Western philosophy or metaphysics, the completion marked by cybernetics. Therefore, the task might be to go beyond the biological metaphor of symbiosis, and inquire into a new agenda of co-existence, which I suggest as a new condition of philosophy.

第6講 5月27日 中島隆博(東アジア藝文書院長、東洋文化研究所、世界哲学・中国哲学)
「共生とバイオポリティクス」
共生は日本社会では定着した概念ではあるが、少し歴史を遡ると国家のための「共生共死」という文脈でも用いられていたことがある。昨今の感染症によって、近代国家がその衛生概念として「義務としての健康」を課していることがよくわかるようになってきた。はたして、共生というのは健康を軸とするバイオポリティクスとどのような関係にあるのだろうか。できれば古い「養生」という概念に接続しうるような共生について考えてみたい。

第7講 5月30日 田中有紀(東洋文化研究所、中国哲学)
「類を違える物と共に生きる世界:中国思想から考える環境倫理」
もし中国思想に、新しい環境倫理の構築に寄与する可能性があるならば、それは何だろうか。清末の思想家・康有為は、人間と動植物は本質的に同質であると考え、同質であるにもかかわらず人間が動物を殺す理由は、自分と類を違えるから、つまり形体が異なるからに過ぎないと考えた。康有為が理想とした大同の世では、肉に替わる食物を生み出す技術によって動物を殺す理由は消滅する。しかし一方で私たちは、顕微鏡という別の技術を通して、無数にうごめく生物の存在に気付かざるを得ず、完全な不殺生は不可能だという事実を突きつけられる。このジレンマにどのように向き合うのか。中国思想における人間と技術の思想を通して考えたい。

第8講 6月3日 藤岡俊博(総合文化研究科、フランス哲学・ヨーロッパ思想史)
「「他者」と共生する「私」とは誰か――レヴィナスの思想を手がかりに」
「私」は「他者」に対して無限の責任を負っている――こうした過激な倫理思想で知られる哲学者エマニュエル・レヴィナスは、「私」と「他者」の共生を思考した哲学者でもあった。「私」が「他者」に一方的に法外な責任を負うという思想から、一体どのような共生のあり方が導き出されるのだろうか。本講義では、レヴィナスや関連する思想家のテクストを手がかりに、この問いについて考察してみたい。

第9講 6月10日 柳幹康(東洋文化研究所、中国仏教思想史)
「仏教から見た共生:私ひとりで幸せになれるのか?」
本講義では共生(共に生きること)について、仏教の観点から分析する。もし共生を否定するのであればそれは、自分の利益のためであれば他者を犠牲にしても構わないという自己本位的な考え方に基づくであろう。しかしながら、他者の犠牲のうえに個人の幸せは本当に実現するのであろうか。この問題について、共生をめぐり仏教で為されてきた議論を振り返りつつ、生と死に関する仏教の世界観をふまえたうえで改めて考えたい。

第10講 6月17日 張政遠(総合文化研究科、日本哲学・現象学)
「先住民族との共生」
先住民族と「共生」することは、何を意味するのだろうか。日本の場合においては、「アイヌは先住民族である」ということは、「日本は単一民族国家ではない」ということを意味している。先住民族としてのアイヌを知るために、国家の施設でアイヌ文化が展示されているが、より重要なのは先住民族の権利運動(狩猟、教育、土地など)を守ることである。台湾やメキシコなど事例を取り上げ、「共生」に関する諸課題について一緒に考えてみたい。

第11講 6月24日 村上克尚(総合文化研究科、日本戦後文学)
「文学研究と「ポストクリティーク」――批判は共生のための技術になり得ないのか?」
私は文学研究の根底には「批判(クリティック)」の力があると考えてきた。しかし、近年「批判」は、反対ばかりで波風を立てるとか、知識を振りかざしてマウントをとろうとするといったかたちで、忌避されているように見える。この動きに呼応するように、英語圏の文学研究では、リタ・フェルスキを代表に「ポストクリティーク」が提唱されてもいる。人と人との(あるいはそれ以外の諸存在者との)共生を視野に収めたときに、これからの文学研究はテクストとどのように向き合うべきなのか、皆さんと一緒に考えてみたい。

第12講 7月1日 王欽(総合文化研究科、比較文学・批評理論)
「共生を求めること・共生を堪えること——魯迅を再読する」
中国近代文学の代表的な作家として知られている魯迅は、生涯を通じて他者と連帯し、生きていく道を探し続けていた。小説から雑文にかけて、魯迅のさまざまな作品においては、孤独感が漂いながら、他者との共生に対するアンビバレントな態度が明らかである。すでに置かれた社会での共生の軛を断ち、来るべき人間関係や社会関係のあり様を文学という道具で模索している魯迅の営みは、グローバルな閉塞感を如何に打開すべきかという難問に関して貴重な思想的ヒントを与えてくれる。われわれはどんな共生を想像すべきかを魯迅から考えてみたい。

第13講 7月8日 石井剛(東アジア藝文書院副院長、総合文化研究科、中国哲学)
「よりよく生きるためのスペースを想像する」
Symbiosisとしての「共生」は自然界における種を超えた相互依存関係のことを言うので、共生とはわたしたちが生きる世界の基本的現実であると言える。つまり、わたしたちは実は生きているだけで共生しているのだ。共生なき生は原理的にありえない。ということは、共生を目指すべき目標であると見定めるのなら、わたしたちは自ずと「よりよき生」とは何かを考えなければならない。わたしの授業では、「よく生きる」ためにわたしたちは、大学で、会社で、社会で、どのような工夫をなし、どのような仕組みを求めればいいのかを皆で一緒に想像してみたい。

【各回のリアクションペーパー】
 第1講 4月 8日 初回ガイダンス 
 https://forms.gle/x3E7MwKKr3kHBLiL6

 第2講 4月15日 青山和佳「共生をめぐる小さな自伝的物語り」
 https://forms.gle/WqicpABecewiCanu9

 第3講 4月22日 星野太「いかにして共に生きるか──「食べること」と「リズム」について」
 https://forms.gle/oRZizhRsfstAT6Je9

 第4講 5月6日 呂植「Living in Harmony with Nature: Is It Possible And How?」
 https://forms.gle/RKhaKErhkHAqzxbw8

 第5講 5月20日 ユク・ホイ「Beyond the Organismic Metaphor, or Philosophy after Cybernetics」
 https://forms.gle/doxK3RKFqWfFhHsC8

 第6講 5月27日 中島隆博「共生とバイオポリティクス」
 https://forms.gle/eEYjEE64yhGd75LY7

 第7講 5月30日 田中有紀「類を違える物と共に生きる世界:中国思想から考える環境倫理」
 https://forms.gle/iGcPQUbGSYjdBQPa7

 第8講 6月3日 藤岡俊博「「他者」と共生する「私」とは誰か――レヴィナスの思想を手がかりに」
 https://forms.gle/RziMi5z7p1tuz2Ty5

 第9講 6月10日 柳幹康「仏教から見た共生:私ひとりで幸せになれるのか?」
 https://forms.gle/ux7FpPjkzvq2XpwY8

 第10講 6月17日 張政遠「先住民族との共生」
 https://forms.gle/vgK9YoDzqPHZXEdt8

 第11講 6月24日 村上克尚「文学研究と「ポストクリティーク」――批判は共生のための技術になり得ないのか?」
 https://forms.gle/yiPcKzU1M5cwveGDA

 第12講 7月1日 王欽「共生を求めること・共生を堪えること——魯迅を再読する」
 https://forms.gle/oFW3e5UYabAGsYJu7

 第13講 7月8日 石井剛「よりよく生きるためのスペースを想像する」
 https://forms.gle/dAKtApnamamYxhb27