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2022.06.02

【報告】2022 Sセメスター 第6回学術フロンティア講義

2022年5月27日(金)、学術フロンティア講義「30年後の世界へ——『共生』を問う」の第六回として、EAA院長の中島隆博氏が「共生とバイオポリティクス」という講演を行った。

中島氏によると、共生という語には警戒すべき二つの意味や帰結があるという。それは伝統な「バイオポリティクス」(生政治)と現代的な形式での「全体主義」である。

前者の代表例は、いわゆる大正生命主義という時代背景に深刻に根ざして、生の共同体的な増進という意味の「共生」があり、このような「共生」は、後の軍国主義に「共生共死」という恐ろしい言い方で用いられたように、特定の「生」以外、別のあり方の「生」が死んでもやむをえないという意味に堕ちてしまい可能性があると、中島隆博氏が指摘した。

後者の例として中島氏が言及したのが、現在のコロナの禍の問題である。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが、感染拡大の防止策を受けて全体主義の台頭への不安を表したことはよく知られているが、中島氏はむしろ、政府の強権よりも脱社会化・脱政治化する状況こそが深刻な問題ではないかと指摘した。さらに、アガンベンが「ア・デミア ademia」——否定を表す接頭辞「a」と、人々を意味するギリシア語「demia」の複合語。人民の不在を示唆する——を提示したのに対して、中島氏は「パン・デミア pandemia」を提唱し、代理なき人民の現前を解決案とした(なお「pan」は全体を意味する)。

感染拡大が深刻な今日において、あえて「パン・デミア」という言葉を用いた中島氏の真意はどこにあるのだろうか。筆者から見れば、氏は依然としてパンデミックによって危機に陥ったデモクラシーのために活路を探している。あるいは氏にとって「パン・デミック」なデモクラシー、つまり「パン・デモクラシー」こそ、西洋中心の普遍性の概念を反省し、新しい普遍性や生の概念を創出する契機なのかもしれない。
最終的に中島氏は、所有権を中心とした「プライベート」なものでなく、感情を陶冶する「礼」を生の形式とするような人格にもとづく「パーソナル」なものとして個人を捉え、「共に生きること co-living」にとどまらず「共に人間的になっていくこと co-becoming」を目指すべきだと結論づける。とはいえ、これは筆者にはいささか捨象しすぎと感じざるをえない。例えば、コロナ対策にかんして異なる考えを持つ人々(自由を強調/制御が必要)の co-living の困難さはしばしば問われているが、そこからさらに両者の co-becoming を実現するにはどうすればよいのだろうか。

報告:佟 欣妍(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)human co-becomingという考え方は、西洋個人主義を乗り越え、資本主義社会に奪われつつある人間性を取り戻す可能性があると思う。しかしながら、資本主義という基盤がある以上、例えばデジタル全体主義のようなものに歯止めをかけ、別方向に舵をきることが難しいのではないかと感じる。どうすればそうした中で、人間同士が互恵的に手を取り合って人間的になっていくことが可能なのか。ミクロな範囲では十分想像可能だが、マクロな社会を考えるとどうしても想像できない。結局、行き着くところまで行くしかないという加速主義的な解しか現実的には思いつけない。この問を考え続けたいと思う。(理科一類)

(2)最近の日本では学問がそれ自身の有益性を主張しなくてはならなくなったことももちろんですが、専門的な教育を受けた人々が文脈に則って読み、多面的に検討されるべき、相対的なものでしかあり得ない言説が実生活において即効力のある絶対的に有益なものとしてのみ用いられるのはあまりに危険だと思います。インターネット上でも、各個人が哲学や文学の系譜の中の一つ一つの言葉を無謬な絶対的真理として、行動原理として想定しているように見えます。これがとても不思議だったのですが、デジタル全体主義の話を伺い納得しました。1930年代初頭のドイツに関するさまざまな回想に、ナチスの台頭を「消極的に支持した」「時代に流されることを望んだ」大衆のあり方が描かれています。そのような拠りどころとして、哲学や文学の文脈から切り離されて用いられ、研究者・哲学者のうち何人かが「カリスマ」に仕立て上げられもてはやされていることには複雑な気持ちです。(文科三類)