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2022.06.03

【報告】2022 Sセメスター 第7回学術フロンティア講義

「忍びざるの心」がはたらかないほどの他者に対し、人間社会はいかにして仁愛を向けることができるのか。環境倫理がこうした答えようのないアポリアを抱えているとすれば、そもそも理論的に環境倫理を考えることは実践的に有効な手立てなのだろうか。2022年5月30日、田中有紀氏(東洋文化研究所)による第7回学術フロンティア講義「類を違える物と共に生きる世界:中国思想から考える環境倫理」は、朱熹や康有為の思想を検討しながら、以上の問いを提起した。

環境問題の根源として、西洋文明に内在する人間中心主義が糾弾されることは多い。しかしその裏返しとして、非西洋圏に人間中心主義の単純な外部を見てしまうことに、我々は警戒しなければならない。環境倫理を中国思想から考えることを通して田中氏は、人間中心主義が中国でも古来より逃れがたいものであったこと、だからこそ類を違えるものといかに関わるかという問いは、中国思想における問いでもあることを強調した。

田中氏が最後に投げかけた重い問いは、一般化すれば「倫理学は人を倫理的にするのに役立つのか」ということになる。だが、これはうまく立てられた問いなのだろうか。そもそも、人は必ずしも倫理学によって初めて倫理的実践へと促されるわけではない。そうであるならば、問うべきはむしろ、いかなる時に人は倫理ではなく倫理学を求めるのかではないか。たとえば、「人間中心主義」という概念は現にいかなる場面で持ち出され、いかなる機能を果たしているのだろうか。倫理学と実践との絡み合いは、大学の内でも外でも、ミクロな次元で絶えず生じている。倫理を問うときメタレベルで問われるのは、こうした絡み合いの中でいかなる問いを立てるべきかそれ自体でもあるように思われる。

報告:上田 有輝(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)大変興味深い講義をありがとうございました。講義の中で新たな問いとなるようなヒントをたくさんいただきましたが、特に最後の「環境倫理学を大学で論じることに意味はあるのか」という問いは、受験生時代環境系の学部に進むか否かで悩んでいた私にとってもかなり切実な問いであり、毎日悩みに悩んで、悩みすぎて情緒不安定になったことを思い出しました。環境を専門としつつ社会に対して何かのアプローチを本気でしようと思っている人の言葉とそうでない人の言葉には差があるという先生のご意見はまさにおっしゃる通りだと思います。「人新生の『資本論』」のように明らかな問題意識のある意見はやはり人の心に響くと思うからです。ですが、質問の中でもあったように、学者は学者としての役割を、思想家は思想家としての役割を果たすべきだという意見もまた一理あるように思います。私の稚拙な考察で恐縮ですが、先生が講義の中でレイチェルカーソンを例に挙げられていたように、直接本人の利害に結びつきづらい環境倫理学において人を動かすためには、ある程度社会心理学のようなものを考慮しなければならないというのもまた事実だと思うからです。これに関しては高校生の時に読んだ文章で印象に残っているものがあります。環境に対する意識、この場合では温暖化に関する意識調査をすると、その結果が聞き取り調査をした際の部屋の気温との相関性を持っていたというものです。すなわち、部屋の気温が高ければ人は温暖化には早急な対策が必要だと考え、部屋の気温が低ければ温暖化に対して楽観的になりがちであるということです。そんな小さな変化でこんなに大事な問題への意識が変わってしまうものなのかと衝撃を受けた記憶があります。(理科二類1年)

(2)自然と人間とを二分したうえで、人間にとって有益になるように自然をコントロールしようとする人間中心主義が、実は中国文明にも根付いていたものであるということが衝撃だった。哲学は、人間を自然から区分することをやめ、全生命体を相互に連環したものとしてみようとするが、果たして哲学に大衆の意識を変えていくことができるのかという点が大きなポイントであったと思う。私個人としては、全生命の連環という考え方をとらなければ、このままでは環境問題のせいで人間の在り方自体に重大な危機が及ぶので、意識改革を推し進める必要があると思った(例えば、小学生の学習プログラムにキャンプなどの自然と触れ合う機会を設けるなど)。しかし、ここで一つ疑問が浮かぶ。人間中心主義を脱却しようとするのに、「人間の在り方」についての議論を持ち出すのはおかしいのではないか。それに対してはプラグマティズム的な見方から反論したい。いかに宗教など、人間の上なる存在を置こうとする虚構であれ、それが信じられ受け入れられたのは、人間のためになると人間が判断したからではないか(信じるのがつらいだけの宗教ならば受け入れられたはずがない)。それならば、意識の出発点として、自らの利益を持ち出すのは決して悪いことではないと思う。(文科一類1年)