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2020.11.24

話す / 離す / 花す(3)

使用の手引き

石井剛

 EAAでは新しく「話す/ 離す/ 花す」というリレー式エクリチュールの試みを始めることにした。もともとの発案者は特任研究員の髙山花子さんだ。院長や副院長の言葉をもっと直にウェブサイト上で発信すべきではないかというのである。わたしがすぐさま連想したのは、UTCPでかつて小林康夫さんが試みていた「哲学の樹」というプロジェクトである。これは、ひとまとまりのエッセイに対して誰かが自由にコメントを加えていくという斬新なアイデアであった。髙山さんにして見れば、4月からの在宅中心の新しい勤務習慣に対する危惧もあったのだろう、「(昨今は)エクリチュールそのものがテレコミュニケーションであることを皆が忘れている」と訴えてきたのだった。そして、「書くこと」は「おしゃべり」をいったん中断して「ことば」にすることであるはずだとも教えてくれた(この発想も小林さんからのギフトだそうだ。出典は『若い人のための10冊の本』)。なるほど、「話す」ことから「書く」ことへの昇華は、いったんことばが自らから切り離されることによって実現する、紛れもない冒険である。それによって、ことばは友情を育むことになるだろう。

 ここ数年、わたしが好きでたまらなく感じるようになったのは、『老子道徳経』の成立の由来を語ったベルトルト・ブレヒトの詩に対するヴァルター・ベンヤミンの批評だ。ベンヤミンは言う。

  『道徳経』の内容は友情である、と言うことが仮に不当なことだとしても、少なくとも、『道徳経』は——この伝説によるならば——それが後世に伝えられたことを友情に負うている、と主張してもかまわないだろう。(ベンヤミン「ブレヒトの詩への註釈」、『ベンヤミン・コレクション 4』、517ページ)

 わたしはこの2年間に何度授業でこれを引用したかわからないほどだ。ここでいう「友情」とは、端的には老子と税関吏(尹喜)との間で、偶発的に、したがって運命的に生じた交感のことを指すが、わたしは「後世」に伝えられたことのすべてがそうした友情(偶発的であるがゆえに運命的な)に負うていると考える。それは、『老子』(『道徳経』はその別名)というテキストが読み継がれてきたこと、そして「読み継がれ」の中でさまざまな注釈が生じ、それがテキストに新たないのちを吹き込んできたこと、という二つにして一つの事実によって証される。テキストはその生成からしてすでに友情による相互行為なのだ。

 

  【進め方】

 こうした縁起を踏まえた上で、「話す/離す/花す」の進め方を説き明かしたい。何よりも特徴的なのは、それぞれ独立したエッセイが、それが生まれる前にすでに存在していた別のエッセイ中のあることばに対する注釈の関係になっているということだ。だから、第n回のエッセイの中にあるハイパーリンクをクリックすると、第n+x回(x>0)のエッセイに飛べるようになっている(注釈方法①)。だから執筆者は、提出時にそのエッセイがどの回のどのことばに対する注釈として派生しているのかを担当者に伝えてほしい。もちろん、これとは逆に第n-x回へともどることも可能だ(注釈方法②)。時間の先後関係の秩序を越えて相互に注釈し合う奇妙な連環も歓迎したい。だが、もどって参照することはどこでも当たり前のように行われているし、わたしたちは古いテキストの中から新しいテキストが継起的に生成していくことによって、この場(サイト)がつねに生成と変容のフロンティアであり続けることにこそ積極的な意味を見いだしたいので、「注釈方法①」をエッセイ執筆における最低の要求としたい。いまわたしが書いているこのエッセイが過去2回のエッセイ(中島さんの回髙山さんの回)のうち、どの部分を注釈しているのかは敢えて明かさないので、それぞれのページを見ていただきたい。

 

 さて、ブレヒトの詩「老子の亡命途上での『道徳経』の成立についての伝説」もまた、友情を繋ぐように広まった作品であることはハンナ・アレントが記しているとおりだ。実は、この詩はナチスから逃れるためにデンマークのスヴェンボルに亡命していたブレヒトを訪れたベンヤミンが持ち返ったことで、「ちょうど良い便りについてのうわさのように、こうした智恵が最も必要とされているところで——慰めと忍耐と持久力の源泉として——急速に口から口へと伝えられた」(ハンナ・アレント『暗い時代の人々』、378ページ)のだった。上述のようにわたしはこのものがたりについて何度も授業の中で言及してきたが、不幸なことにCOVID-19の流行という予期せぬ事態によって、わたしたちは急速に「暗い時代」に放り込まれようとしている。

 先日、とある授業で啓蒙について講義をした。ジャック・デリダの『条件なき大学』から始めて、わたしなりに人文学の意味を問い直そうと試みた拙い授業だ。授業後にコメントを寄せた学生は、アウシュビッツのあとでなぜなおも啓蒙を信じ続けることができるのだろうかと問うてきた。その問いは痛切だった。なぜなら、その学生の周囲には新型コロナウイルスに感染した友人がおり、共同生活をしている(といっても同じ建物に住んでいるというだけで、自室から出てくることもはばかられ、ラップトップの前に座ってオンライン授業に出続けるだけの孤立した生活を強いられている)人々の中に、やり場のない不安が充満していた。その不安は、一連の防疫対策によって解消されるものでないばかりか、感染という現象を科学的、規律的に処理しようとする啓蒙的合理主義によって亢進すらするものであるとこの学生は言う。合理主義的理性によって支配された社会は、パンデミックを前にしても、理性からこぼれ落ちる不安や恐怖や、社会システム自体が内に抱える不合理(ほんの一例だが、貧富の構造的格差は正義に反するがゆえに理性によって改善を目指されるべき不合理だとも言える)を等閑視したままで、既成の秩序構造を守ろうとしているだけではないか。大学はそうした構造を支える学問の場として最も大きな責任を有しているにもかかわらず、その構造に加担していることに対する自覚と反省が今の大学には欠如しているとこの学生はいう。そして、こう問う。そのような大学は、人文学の必要性を主張する資格を本当に有しているのか、と。

 わたしたちはどうやってこの学生の問いかけに答えるだろうか。そう、たしかに啓蒙(enlightenment、光を与えること)の理想は啓蒙自身の内側から野蛮に転じた。わたしたちはそのあとの時代を生きている。しかしそれでもなお、わたしたちは光を求め続けるべきなのではないか。アレントは言う、「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つ」(『暗い時代の人々』、10ページ)のだと。わたしは、テキストを読むという行為の中に、弱いかも知れないが一抹の光明を見いだすことはつねに可能であると信じるし、それは実際、ナチス・ドイツの支配下にあってブレヒトとベンヤミンから「柔らかい水が勝つのだ」という老子の教えを知らされ、そこに光明を見いだそうとした人々の間を繋ぐエクリチュールの友情となって、アレントの心を動かしたのだった。そして大学は、光の灯る方向を示す存在であり、光を求める人々の友情が交わされる場ではないだろうか。少なくともEAAが目指すべき新しい学問とはそのようなものとして大学を作り直していくものであるはずだ。わたしたちが「30年後の世界へ」を学生の皆さんとともに構想しようとしてきたことの根底には、こういう願いが確固として存在している。

 ところで、「話す/離す/花す」の三つ目の「ハナス」は奇妙なことばである。これは、最近、中島さんが強調している「花する」というキーワード(詳細はEAA Booklet7『世界人間学宣言』、43ページ)から取ったものだ。このプロジェクトがこれに関与する人々一人ひとり(書く人も読む人も)が「花する」ことに寄与するものであってほしいと願っている。

 photographed by Hanako