プロジェクト
一高プロジェクト

一高中国人留学生と101号館の歴史展(2)

パンフレット(PDF)
※会場2


「清国留学生受け入れの始まり」展示品概要

東京大学教養学部の前身は旧制第一高等学校(一高)である。その前身、官立東京英語学校および東京大学予備門の時期を経て、明治19年(1886)に第一高等中学校が創立され、明治27年(1894)に第一高等学校と改称された。

それから4年後の明治31年(1898)11月に、校長として狩野亨吉(1865~1942)が着任した。一高における中国人留学生(当時は清国留学生と呼ばれた)は狩野校長時代に始まったため、東京大学駒場図書館所蔵の狩野亨吉文書の中には、清国留学生関連資料の一群が含まれる。

一高における清国留学生の受け入れは明治32年9月に始まった。このときは浙江省からの留学生8名を聴講生として受け入れる形で、一高入学式の式辞において、狩野校長が留学生についても触れている。一高がまだ今の農学部がある本郷の弥生キャンパスに置かれていた頃である(駒場へは昭和10年(1935)に移転した)。続いて明治37年1月には、清国政府から派遣された京師大学堂(北京大学の前身)の学生31名が入学した。学習課程や寄宿寮の規約などは日本人学生に倣いつつも、学習サポートとして軽井沢で夏期講習を開講した記録なども残っている。ここでは狩野亨吉文書中の報告書や覚書などからうかがい知れる、中国人留学生受け入れの草創期について紹介する。

ちなみに、他校でもこの時期に留学生受け入れが開始された。魯迅(1881~1936)の「藤野先生」(1926年)の冒頭にも上野の満開の桜に集う辮髪姿の清国留学生が描かれる。東京高等師範学校の校長だった嘉納治五郎(1860~1938)が清国政府の依頼で明治35年に作った弘文学院の学生達とされる。魯迅自身も同年から2年間通った。また、2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」の第6回「お江戸日本橋」には、1911年の辛亥革命に際し、嘉納校長(役所広司)が在学中の清国留学生の身を案じ、帰国を思いとどまるよう説得するシーンがあった。

尚、東京大学では現在、学内の学術資源をデジタル化して広く公開することを目的とした「東京大学デジタルアーカイブズ構築事業」が進んでおり、今回展示する資料の一部もすでに科研費によるデジタル撮影を終えている。今後、個人情報やプライバシーの問題に配慮しつつ、順次公開していくことを目指している。 

(田村 隆)

1.「一高入学式式辞」
狩野亨吉が一高校長として初めて臨んだ明治32年(1899)の入学式の式辞と見られる。式辞中に「昨年余カ就任ノ際」という文言が見え、明治31年の着任の翌年、すなわち32年の式辞であることが確認できる。当時は9月入学。この年から始まった清国留学生受け入れ(この年は聴講生8名)に触れ、「殊ニ今年ハ初メテ支那ノ留学生ヲ本校ニ入学セシメタル際ナレハ尤モ注意シテ善隣ノ道ヲ欠クコトナカランコトヲ務メヨ」と呼びかけている。ただし、『校友会雑誌』第89号(明治32年9月30日)に紹介された校長告諭にはこの一節がなく、全体にわたって表現の異同がある。推敲を経て大きく書き改められたのであろうか。

リンク:狩野亨吉文書

 

2.『校友会雑誌』第90号
本誌所収の「入寮の清国遊学生を迎へ且つ之に告ぐ」では、古来中国の文化から多くを学んできた日本の「校友諸兄、寮生諸子」が今は留学生の「其偏狭なる見解を広め」ることに努めるべきであると述べ、「清国遊学の諸子、諸子若し、内に包蔵する意見有らば、冀くは無遠慮に開陳発露せよや、敢て或は蔵匿する有る勿かれ、此実に吾人の傾聴せんと欲する所のものたり。迂紆曲折、牆を寮生に城くが如きは、我自治寮の大禁物にして、諸子の為めに取らざる所也」と呼びかける。文中には「奮て善隣の遊学生のため」という一句があり、一月前の入学式における狩野校長の式辞を意識したものかもしれない。

明治32年10月30日

 

3.『清国京師大学堂留学生ニ関スル第一年報告書』(草稿)
清国留学生に関する明治37年(1904)の報告書の草稿。狩野校長から文部大臣久保田譲宛。「日語ノ教授法ハ教科書ニ由ルト口授ニ由ルト並行セシメ留学生ノ解シ難キ場合ニハ清語ヲ用ヰテ説明ヲ加フルコトヽセリ」といった科目ごとの教育方針のほか、学科試験の頁には委員として、「英語」は夏目金之助(漱石)、「日語」は杉敏介(後の一高校長。『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル)の名が見える。「修学旅行及ビ遊覧」として、上野公園・動物園、「各省官衙」など近隣の他、鎌倉、小田原、軽井沢などにも出かけたことが知られるし、留学生の健康面については、吃音の学生を「六月十五日ヨリ同三十日ニ至ル吃音矯正ノ為メ伊沢修二方ニ寓ス」といった報告もある。『小学唱歌集』や吃音研究で著名な伊沢修二(1851~1917)である。

リンク:狩野亨吉文書

 

4. 『校友会雑誌』第133号
「清国留学生の入校」の記事内に、一高倫理講堂における狩野校長の訓示が引用されている。「一月十六日狩野校長は生徒一同を倫理講堂に会して、告ぐるに其の委曲を以てし、諭して曰く」とあり、「今回の事たる実に清国にとつての其の開発の一新紀元たるべきのみならず、我国家百年の大計の存する処たらずんばあらず。一千の校友諸君願くは双手を開いて千里負笈の客を迎へよ、赤誠を吐露して遠来三十の友に接せよ」との訓示が載る。先に紹介した報告書の「訓示」の項に「一般留学生ニ対シ修学ノ心得ニ関シ訓示ヲナスコト二回、一回ハ学科始業ノ際ニ於テシ一回ハ当校学籍ニ編入スル前ニ於テセリ」とあるから、本誌掲載の1月16日の訓示は一回目の方であろう。

明治37年1月31日

 

5. 留学生教科書一覧
第一高等学校の用箋に記された留学生用の教科書一覧。一枚物の方は「明治三十七年清国京師大学堂留学生教科用書」「七月以前日語科」とあり、坪内雄蔵(逍遙)『国語読本』や藤岡作太郎『日本史教科書』、巌谷季雄(小波)『瘤取物語』などが挙がる。綴りの方には「九月以後ノ各教科書」の頁があり、科ごとに留学生の名を記した上で、各教科書が挙げられる。そのうちの一冊、「斎藤氏英語会話教科書」を併せて展示する。独乙語(ドイツ語)の教科書は「第一高等学校文学科教員選定独乙語読本巻ノ一」とあり、自前の教科書を用いたようである。上記のうち、「国立国会図書館デジタルコレクション」において公開されている教科書もあるので参照されたい。

リンク:狩野亨吉文書

 

6. 留学生鐘賡言の谷山初七郎宛書簡
鐘賡言の名は報告書の中に「第一部速成」所属生として見え、「月次学期試験点数表」にも成績が記録される。文面は、今用いている英語読本を読み終えた後の教科書について率直に相談するものである。「私共ハソノ本ヲ読ンダラソノ第三ノ代リニ(斎藤会話文法)ヲ読ムコトヲ願ヒマス」とある。「斎藤会話文法」とは、教科書一覧とともに展示している斎藤祥三郎編『英語文法会話作文』を指すと思われる。文末の「森先生」は英語の森巻吉のことか。「其会話文法ハ即チ今一部ノ方ガ五島先生カラ習ツテ居ル読本デス」とあるから、そこで評判のよい教科書なのであろう。緒言には、「本書は英語の学習を始めてより半年乃至二年以上を経たる人に文法、会話及び作文の諸科を併修せしむるに便せんが為に編輯したるものなり」とある。

リンク:狩野亨吉文書

 

7. 夏季講習講師出発及授業開始等予定
報告書には、「是ニ於テ夏期暇日ヲ廃シテ授業ヲ継続シ前陳ノ目的ヲ貫徹センガ為メ土地高涼衛生宜シク勉学ニ適スル信州軽井沢ノ地ニ宿舎及ビ教場ヲ借入シ」云々とある。7月13日に留学生30名で東京を発って軽井沢に到着、15日から授業が開始された模様。報告書に「数学十二時間」とある「沢田講師」(沢田吾一)について行程を確認すると、「七月十四日東京出発翌日ヨリ授業」(報告書の記述と符合)、「七月十九日朝授業ヲ終リ直ニ帰京 二十二日又軽井沢ニ至リ同日ヨリ四回授業」。

リンク:狩野亨吉文書

 

8. 私費留学生月費の領収書
私費留学生月費の領収書。二枚とも明治38年(1905)3月3日付で、発行者は生徒監谷山初七郎。一枚は15円を「但私費支那留学生李福恒二月分月費」として、もう一枚は6円を「但支那私費留学生王蔭泰一月、二月両月分月費」として領収したことを証するもの。二人とも私費留学生のため、官費生の報告書には登場しないが、王蔭泰については別ケースに展示される名簿に名が見える(希望学科は工科)。一ヶ月分の月費にかなり差があるのが不審だが、学年・課程や受講科目等の違いによるものか。

リンク:狩野亨吉文書

 

9.『清国京師大学堂留学生ニ関スル第二年報告書』
二年次にあたる明治38年(1905)の報告書。展示個所では留学生の食事に関して、「寄宿寮内ニテハ已ニ食事ヲ日本料理ニ改メタリ下宿ニ就クモノハ殆ド初メヨリ本邦ノ食事ヲ用ヰシナリ而カモ既ニ習慣トナリテ別ニ故障ヲ生ジタルコトアラズ」といった観察が示される。「帰国ニ関スル事」では、今年は留学生の夏休みの帰国希望者が多いため、昨夏も実施した軽井沢での夏期講習に支障をきたす点や、帰国に要する旅費負担の問題などが報告されている。明治38年6・7月の帰国学生18名の中には、先に書簡を紹介した鐘賡言も含まれる。

リンク:狩野亨吉文書

 

10.『朝花夕拾』所収「藤野先生」
魯迅の「藤野先生」(1926年)冒頭には清国留学生が登場する。「上野の桜の爛漫たる時節には、眺めやれば確かに緋色の軽い雲のやうであつた。だがその花の下には団体を組んだ「清国留学生」の速成班が必ず陣取つてゐて、頭のてつぺんに辮髪をぐるぐる巻きにし、学生制帽のてつぺんを上にツンと、まるで冨士山のやうな恰好に突きあげてゐるのだつた」という一節がある。「速成班」については、原文にも「『清国留学生』的速成班」とある(1953年の人民文学出版社版(第5次印刷)による)。彼らは一高生ではなく、嘉納治五郎(1860~1938)が設立し、魯迅自身も通ったことのある弘文学院速成班の学生と考えられている。
※個人蔵。著作権上の問題により掲載しておりません。

(解説執筆:田村隆)

「清国留学生受け入れの準備と提携」展示品概要

日清戦争(1894~95)後、清国政府は国政改革のために新しい学術の摂取を急務とし、中国史上初の総合大学である京師大学堂(北京大学の前身)を光緒24年(1898)に創立した。一方、西洋の学術を学ぶことのできる手近な留学先として日本が注目され、明治31年(1898)5月に浙江省から派遣された留学生が東京に到着、6月23日には清国より姚錫光・黎元洪(のち中華民国大総統)が一高を視察に訪れる。これを契機として清国学生の一高留学が始まったが、狩野亨吉校長は留学生受け入れに際して関係各処との折衝を行っており、現存する書簡群からその様子を読み取ることができる。

上述の浙江省派遣留学生は、東京帝国大学文科大学教授・高楠順次郎(1866~1945、仏教学者)が創設した日華学堂にて予備教育を受け、翌明治32年9月に一高へ入学した。これに先立つ6月には、高楠から狩野に対して留学生受け入れに関する面談を求める書簡が出されている。この年の留学生のうち、章宗祥(1879~1962)は日華学堂から一高を経て東京帝国大学法科大学に学び、帰国後は京師大学堂で教鞭をとった。中華民国成立後、司法総長・駐日公使などの要職を歴任し、中国近代史に名を残した。

明治37年(1904)の清国留学生は、清国政府が京師大学堂の学生のうち優秀な者を選抜し、ヨーロッパ諸国および日本へ官費留学を命じたものである。彼らは帰国後、章宗祥のように京師大学堂の教官となるよう期待されていた。この派遣に際して、章が留学生の渡日を引率したほか、京師大学堂の日本人教官である服部宇之吉(1867~1939、中国哲学者)・巌谷孫蔵(1867~1918、法学者)が、学生の選抜や、留学生章程(規則)の起草、清国管学大臣との折衝などの実務にあたった。服部・巌谷は狩野に清国政府の動向を伝え、狩野からは留学生の様子の報告を受けた。例えば官費生の曽儀進が学資を家計へ回そうとした一件が契機となって、服部らは管学大臣に貧窮者家庭への援助を求め、狩野は曽の留学年限短縮希望を認めて京都帝国大学への早期進学を実現させた。このように狩野と服部・巌谷は日清両国にあって提携し、留学生の学業に便宜を計ろうとしたことがうかがわれる。

以上、省や政府といった公的機関の派遣による留学生について述べたが、実際にはこれらの他にも複数の私費留学生が一高に入学している。例えば官費生の選に漏れた京師大学堂生である施恩曦・葉克斅は私費留学を決意し、服部はこの両名のために狩野への紹介状を書いている。これら私費留学生の動向については『第一高等学校六十年史』(1939年)を始めとする先行文献でも見落とされており、今後の解明が待たれる。

出展資料翻刻(PDF)

(川下 俊文)

1. 高楠順次郎書簡
一高が初めて清国留学生を受け入れるに先立ち、日華学堂総監・高楠順次郎が狩野亨吉に面談を求めたもの。具体的な用件は不明ながら、「至急」の相談とある。実際に留学生が一高の聴講生になったのは、新学年の始まる9月のことである。高楠は東京帝国大学文科大学梵語学講座初代教授、翌明治33年(1900)には東京外国語学校校長をも兼ねる。明治31年の浙江省派遣留学生を引き受けたことを契機に日華学堂を創設し、嘉納治五郎の弘文学院と同様に、広く清国留学生を対象にして日本語および普通学の教育を施した。

明治 32 年 6 月 5 日 第 16 函タ 18-E1

 

2. 章宗祥書簡
明治32年(1899)に一高へ留学した章宗祥が、明治37年留学生の引率者として再来日した際に、狩野を始めとする一高の恩師たちと旧交を温めたことへの礼状。章は一高・帝大で学んだ最初の清国留学生の一人で、帰国後は京師大学堂進士館(現職官吏に対する教育課程)の教習(教授)に就任。中華民国成立後は司法総長などを経て駐日特命全権公使となるが、民国8年(1919)の五・四運動において親日的政策を糾弾され失脚、以後は実業家として暮らした。なお、章の次代の司法総長に就任したのは明治37年(1904)留学生の張耀曽である。

明治 37 年 2 月 12 日 第 17 函チ 9-E10 

 

3. 服部宇之吉書簡(1)
官費留学生31名を一高へ派遣するにあたり、参考資料として留学生章程・京師大学堂の試験成績表を狩野へ送付するとの内容。また、留学生に不平や「心得違い」を起こさせないよう留意することや、留学生の学力が一様でないため「多少変通の法」を用いて教育することなど、懇切な指示が書き連ねられている。服部は帝国大学文科卒業後、北京留学中に義和団事件に遭遇、日本公使館に籠城した経験をもつ。留学を終えて東京帝大文科教授に在任中、明治35年(1902)に京師大学堂師範館(教員養成課程)の総教習(主任教授)に就任。留学生派遣においては巌谷孫蔵とともに大学堂側の実務を担当した。

明治 37 年 1 月 7 日 留学生 01-006
リンク:狩野亨吉文書

 

4. 京師大学堂官派外洋留学生章程
資料3に同封。留学生の学科選択や生活など全般にわたる規則で、服部の起草に係る。留学生の選抜基準に「忠君愛国之誠」を挙げ(第二条)、留学中はいかなる時も「国家」の二字を忘れないよう求め(第九条)、帰国後は留学年限に応じて管学大臣の命令により「当尽之義務(まさに尽くすべきの義務)」に従事するよう定める(第十条)など、官費留学生としての使命を繰り返し強調している。なお、狩野亨吉文書のうち『清国京師大学堂派定留学生ニ関スル書類』一綴の中には、清国留学生の(主に政治運動に対する)取締を定めた「約束遊学生章程」および留学生帰国後の登用方針を定めた「鼓励遊学畢業生章程」の日本語訳文が含まれ、互いに参照することができる。
※「清国政府制定 約束遊学生章程/鼓励遊学畢業生章程 訳文」狩野亨吉文書 コマ2~7

明治37年1月以前 留学生01-006
リンク:狩野亨吉文書

 

5. 服部宇之吉書簡(2)
服部が、留学生に関する管学大臣との折衝について狩野に知らせた書簡の一つ。官費留学生・曽儀進が一時帰国し、支給された学資を家計に回そうと管学大臣に相談したが断られ、この一件が新聞報道されてしまった。管学大臣は怒り、「留学生学資の事ニ関し彼是申出づるハ甚だ事体を知らざるものなり今後右様の者あらば早速当地大学堂に送り帰し処分を受けしむべし」との訓令を発する。服部はこれで問題は落着したと受け取りながらも、根本的対策として留学生のうち貧窮者家庭に対しては国庫による補助を行うべきだと考え、管学大臣へ申し入れるつもりであると狩野に伝えた。資料6にある通り、曽は留学年限の短縮を願い出ているが、本資料に見られるような経済的事情が背景にあったと考えてよいだろう。また、同書簡後半では政府有力者某の甥が日本留学を希望していることを伝え、「日本の為め他日利少なからず」として受け入れを要請している。狩野は受け入れに前向きな返事の下書きを残しているが、姓名未詳のため、その後の動向は不明。

 明治37年9月27日 第 20 函ハ 39-E5 

 

6. 巌谷孫蔵書簡
官費生の留学年限の延長・短縮については管学大臣の認可を経るよう定められているが(留学生章程第五条)、本資料は管学大臣が年限変更の許否を狩野に一任したことを伝えるもの。ただし年限変更はあくまで特例であり、今後の通例とならないよう留意を求めている。これにより、曽儀進は留学年限の短縮が認められ、翌明治38年9月に京都帝国大学法科大学へ進学した。ともに進学した5名連名の書簡も現存する(次コーナー、資料7)。巌谷は京都帝大法科教授に在任中、服部宇之吉と同じく明治35年(1902)に、京師大学堂進士館の総教習に就任。服部とともに留学生派遣の実務を担当した。

明治37年9月28日  第 8 函イ 179-E1

 

7. 服部宇之吉書簡(3)
官費留学生の選に漏れ、私費留学を決行した京師大学堂生・施恩曦を、官費生とともに一高へ入学させるよう狩野に紹介するもの。同じく京師大学堂の私費留学生・葉克斅のための、同日付の紹介状も現存する。なお、官費生のうち1名の病死により、施は明治39年(1906)2月から官費生に昇格した。次コーナーにある通り、明治37年1月に入学した清国留学生のうち、私費生は施・葉を含めて5人いた。さらに当時の『第一高等学校一覧』所載在校生名簿から、その他にも私費生が複数入学していたことが窺われるが、彼らの動向には未詳の点が多い。

明治37年1月11日  第 20 函ハ 39-E14

(解説執筆:川下俊文)

「清国留学生の学業」展示品概要

清国留学生は一高在籍中、どのような教育を受けたのか。当時校長だった狩野亨吉が文部省に宛てた報告書及びその他資料から詳細にみていく(本ページ上部に掲げたパンフレット(PDF)の28-29頁「清国留学生年表」も参照)。

明治37年(1904)、一高が受け入れた留学生は清国から正式に派遣された官費生31名と私費生5名の計36名だった。帝国大学に進むための準備として一高に留学したのである。来日して間もなく全員が学校の寄宿舎に入り、専ら学力試験の日語日文の成績に従って甲乙丙の三組に振り分けられた。そして本科生と同じ授業を受けるために、まずは留学生のみの特別学級にて、9月の一高正式編入までの約半年間、日本語を重点的に学んだ。初期の週ごとの授業時間数は、日語、日文、体操の三科目を以て甲組が20時間、乙・丙組が18時間。4月には志望科別に数学と歴史を加え、夏には夏季休暇を返上して軽井沢で授業を受けた。

9月以降の組について、『第一高等学校一覧 自明治三十七年至明治三十八年』では「外国人特別入学生」として全員が本科生と同級に在籍したように記されている。ところが狩野の報告書によると、実際は本科生と同級の他に、希望して留学年限を延長した学級、それとは反対に早く帝国大学に進ませる速成学級とに分かれたようである。また学級によって週ごとの授業時間数も異なり、学校は教官に嘱託して留学生のために特別授業を行ったとみられる。第一部一年一之組(英法科)を例に、本科生のカリキュラムと比較してみる。本科生が毎週計30時間であるのに対し、留学生は23時間となっているが、若干名を除いて6ないし8時間の日本語が加わり、合計時数は本科生と大きく変わらなかった。次年度の明治38年(1905)9月になると、確認不可の一名を除く全員が進級し、一年は二年に、延長学級は一年に編入し、速成学級は東京帝国大学または京都帝国大学の選科に進んでいった。

狩野亨吉が明治39年(1906)4月に京都帝国大学に転任したため、狩野文書から清国留学生のその後を辿ることは難しい。しかし、『第一高等学校六十年史』(1939年)によると、張耀曽は司法総長、王桐齡は北京師範大学教授、余棨昌は大理院庭長、朱深は大審院検事総長となったことが判明している。また景定成のアナーキストとしての活動は自著『罪案』(国風日報社、1924年)(抄訳は、景梅九(景定成)著、大高巖・波多野太郎訳『留日回顧一中国アナキストの半生』東洋文庫81、平凡社、1966年)に詳しい。

(鶴田 奈月)

1. 留学生名簿
明治37(1904)年1月に来日した清国留学生32名分の名簿。氏名の上に○印がついている5名は私費留学生。全員が京師大学堂の学生だが、「学位」の項目に「州判知州ヨリ第三位ノ地方官」や「挙人郷試及第者」などとあるように、身分も年齢も様々だった。「学科」以下の項目は留学以前に京師大学堂で修めた内容を記したものと考えられる。記載されていない4名の氏名が、遅れて到着した者と一致することから、名簿作成の時期は32名が入寮した1月17日から、後から到着しはじめる2月1日までの間と推定される。

リンク:狩野亨吉文書

 

2. 学力試験書取解答
明治37(1904)年1月23日から25日に行われた学力試験の解答と推定される。名簿と同じく到着が遅れた4名の解答がなく、32名分の解答が現在保管されている。解答にはひらがな、カタカナ、漢字の表記が統一されておらず、指定されていたかは不明。しかし、全解答を通して書かれた文章が一致するため、おそらくは試験官が読み上げた文章を留学生が書き取ったものであろう。点数のひらきが大きいことから、留学生たちの日本語の習熟度にばらつきがあった様子をみてとることができる。

※プライバシー上の問題により掲載しておりません。

 

3.『清国京師大学堂留学生ニ関スル第一年報告』
明治38年(1905)1月、一高校長狩野亨吉が文部大臣久保田譲に宛てた報告書のガリ版刷り。明治37年中の清国留学生に関する各授業日程等が具に報告されている。本資料には報告書の他に、遊学生章程の訳文、京師大学堂の試験採点表、各試験採点表、特別班および各学級振り分け、学科および年限の希望や変更一覧等の書類が綴じられている。なお、報告書には私費留学生の名前が一切記されていないが、これらの書類には官費生と同様に記録され、実務上では区別されていなかったと考えられる。

リンク:狩野亨吉文書

 

4.「登浅間山観噴火口」(『校友会雑誌』第167号)
清国留学生、范熙壬が一高生による学内誌『校友会雑誌』に寄せた紀行文。冒頭の「甲辰八月二十四日」より、明治37年(1904)夏季授業中、博物学の授業の一環で浅間山に登った時の記録と推察できる。浅間山の話は景定成の自伝にも登場している。また『校友会雑誌』には、本記事の他にも、周宣「旅行江島鎌倉横須賀房州日記」第136号(明治37年4月28日)等、留学生による文章がしばしば掲載された。

明治40年5月30日

 

5. 清国留学生書簡 (1)
清国留学生、朱獻文が校長狩野亨吉に送った書簡。「明年秋間送入西京大学」との言葉から、本書簡は明治37年に書かれたと推定される。文中の「西京大学」は京都帝国大学を意味し、事実朱獻文は速成組に編入、明治38年(1905)に法科(選科)へ進学した。三十歳にして「西文」の勉学に苦労している様子が伺えるが、朱獻文は留学生の中でも珍しく二ヶ国語を学んでおり、ここでは英語または独語、あるいは両方を指していると考えられる。

明治37年(推定)第17函チ-9-E-44

 

6. 清国留学生書簡(2)
清国留学生、杜福垣が校長狩野亨吉に送った書簡。自身の学力不足を理由に、自分を二年生へ進級させないように願い出たもの。この希望に関して、明治39年(1906)作成の狩野の報告書に次のような記述がある。「一部二年四之組(独逸法科)ニ属スル者ハ留学年限ヲ延長シテ一年級ニ留ランコトヲ願ヒ出デタルモ其学力概シテ本邦学生ト並馳スルニ足ルヲ認メテ之ヲ許可セズ」初年度は試験の成績に関係なく、清国留学生たちは一律に進級した。

明治 38年8月21日 第17函チ-9-E-23

 

7. 清国留学生書簡(3)
京都帝国大学選科に進学した速成組の5名から、京都に到着したことを報告した書簡。封筒に日付は記載されていないが、内容から帝大入学直前と推定される。差出人の進学先の内訳は法科4名、医科1名。狩野亨吉もこの翌年より京都大学へ転任となる。転任先においてどのような交流が行われていたかは不明だが、狩野亨吉は明治41年(1908)にも同連名の差出人から年賀状を受け取っている。

明治38年9月(推定)第17函チ-9-E-43

(解説執筆:鶴田奈月)

※以上の資料は特記したものを除き、東京大学駒場図書館所蔵。無断転載・転用を禁じます。

「特設高等科設置と一高の駒場移転」展示品概要

昭和4年(1929)7月から昭和12年(1937)4月までの森巻吉(1877~1939)校長時代には、昭和7年(1932)6月の特設高等科設置、昭和10年(1935)9月の駒場移転が行われた。

一高では、明治41年(1908)に特設予科を設置して、中国人留学生を恒常的に受け入れることとし、1年間の予備教育を施し、修了後に、各地の高等学校へと進む道を開いた。特設予科は、20数年間に810名の修了者を出したが、昭和7年(1932)に特設高等科へと改編された。特設予科を廃しての特設高等科設置の理由は、従来、留学生の就学は、特設予科1年、高等科3年の計4年かかっていたところ、特設高等科の3年に一本化することで1年短縮し、速成を図ることであった。中国人留学生の獲得をめぐって、欧米との競争が生じていた中で、日本への留学をしやすくし、日本留学の魅力を高めるための措置でもあった。特設予科を了えた留学生は、その後、高等科で日本人とともに学んだが、特設高等科では、留学生だけのクラス編成となった。

特設高等科に入学できる資格は、満16歳以上の男子で、公使館などの紹介のある者とされた。学科試験は、日本の中学校第四学年修了の程度により、日本語、英語、数学、歴史、理科について行われ、志望先が文理いずれであっても、文理双方の知識が要求された。この他、口頭試験と身体検査があった。

入学後の教科は、日本人向けの高等科と比べて、日本語の時間数がより多かった他はほぼ変わらなかった。教科書も同じようなものを使用していた。例えば、国語の教科書は、『源氏物語』、『平家物語』、『枕草子』が共通して用いられており、特設高等科では『論語』を除けば、日本の古典文学が多くを占めた(資料3参照)。

昭和12年(1937)7月には、特設高等科の下に1年間の附属予科が設置された。この際、附属予科設置による留学生の日本語力の充実に応じて、科目としての「国語」を「国語及漢文」に改め、漢文を教授し、また「歴史」の時間の中で東洋史を教授して、東洋思想の涵養が図られた。

特設高等科を卒業した留学生は、その多くが京都帝大に進学した。京都帝大が留学生の受け入れに積極的な姿勢を示し、無試験での受け入れを方針としたからである。

(高原 智史)

1. 森巻吉履歴書
森巻吉が一高校長に採用された際の履歴書。金沢の第四高等学校入学から始まり、東京帝大文科大学卒業後の明治37年(1904)には「清国官費留学生英語授業ヲ嘱託ス」とある。明治42年(1909)には第一高等学校教授、昭和2年(1927)には松本高等学校の校長となっている。本資料の中には英語研究のための欧米留学や松本への赴任の度に「留学生講師ヲ解ク」とも記されているが、そのように一高を離れた時以外は、一貫して留学生教育に当たっていたことが見て取れる。

昭和3年(11)I-9

 

2-1. 特設高等科入学志願者選抜試験問題綴正本
2-2. 特設高等科入学志願者選抜試験問題綴副本
特設高等科が設置されて最初の昭和8年(1933)度の入学志願者選抜試験問題。配点は、文科と理科とで科目編成、配分ともに違いがない。文科、理科いずれを志願する場合も、文理双方の学力が要求されたといえよう。四つの日本語科目の配点が計200点、歴史が60点、化学が60点、数学が150点、三つの英語科目が計150点と、日本語の配点の比率が最も多い。「日語解釈」の問題は、答案が残されていないので不明だが、「昔の日本人はどんなに無駄な争闘と無価値の饒舌を嫌つたであらう」という風に始まるような日本語を留学生たちはいかように「解釈」したのだろうか。

昭和8年3月(3)L31, L32

 

3. 昭和15年度第一高等学校教科書目録
昭和15年(1940)度に一高で使われた教科書の一覧表。高等科、特設高等科に分けて各学年、科類ごとに、国漢、外国語、その他(理数)の科目について記載されている。特設高等科の国漢の箇所をみると、『論語』を除けば、一年生の『徒然草』から始まり、『源氏物語』、『万葉集』、『枕草子』など日本の古典文学が多く並び、漱石や鴎外、樋口一葉といった近代の作家の作品も出ている。

昭和15年(3)D18

(解説執筆:高原智史)

「一高における日中学生の交流」展示品概要

一高をはじめとした旧制高校といえば寄宿寮生活である。一高の留学生も、基本的には本科生と同様に寄宿寮に入り、共同生活を通じて、その寮風すなわち校風である自治精神などを身に着け、日本人学生と相互融和することが望まれた。既に、特設予科が設置された明治42年(1909)の3月の寮総大会には、留学生も一般の寮生と同等の自治委員選挙権を持つことが決議されている。但し、留学生が委員会にどこまで参加したかについては不明である。また実際には、食事や生活習慣の問題を理由に通学を希望した留学生も相当数いたようである。例えば、特設予科が特設高等科へと改編された昭和7年(1932)度の留学生の在学生数は107名で、そのうち在寮生は87名、通学者は30名であった(『向陵誌・駒場篇』1984年、47頁)。

学校側は、特設予科設置以来、留学生(当初は、特設予科生及び一高本科留学生)のために、年に一、二回「留学生茶話会」を催してきた。この茶話会は、留学生が普段の生活や勉学において直面する様々な問題を学校側に打ち明けるための場として設けられた。この他にも、寮生を中心に催される「全寮茶話会」や「全寮晩餐会」において、在寮留学生が自身の考えを演説する場面も見られた。しかし、校長・教員、全寮生・卒業生も居並ぶ中で本心を打ち明けることは難しかったのではないかと想像される。

留学生向けの課程が、一カ年の特設予科から三カ年の特設高等科に改編されると、特高生は日本人学生と独立したクラスで教育を受けることになった。これにより、それまでのように予科生が一高本科に入学し日本人学生と共に三年間学ぶ機会もなくなった。当時、在寮の留学生の孤独や疎外感、また留学生内の通学者の多さが問題視され、寮内新聞『向陵時報』では、特高生の蔡耀祺がこの問題について寄稿し、日本人学生と議論を交わすなどしている(会場1の資料15参照)。

このような中、日中学生の間で互いに障壁を乗り越えようとする努力が見られた点に着目したい。昭和9年(1934)4月に、日中学生がより気軽に親睦を深めるための「棣華会」が結成されたが、これは特高生徒主事の竹田復の支援のもと、日本人学生が発起したものであった点で特記すべき活動であったといえよう。この「棣華会」には先の『向陵時報』に寄稿した特高生の蔡耀祺も名を連ねていた。

(宇野瑞木)

1. 特設高等科教室(101号館)と寄宿寮
本館から寄宿寮を眺めた様子。写真の一番手前に見えるのは、一高が駒場に移転するにあたり留学生専用の教室として建てられた「特設高等科教室(現・101号館)」である。当時のキャンパス略図(会場1の資料2)で確認すると、「特設高等科教室」と並んで建っていたのが「中寮」と知られる。この「中寮」の左側に二棟写っているのが「北寮」と留学生のための寄宿寮「明寮」であり、「中寮」の右側にわずかに写っているのが「南寮」である。「明寮」は昭和13年(1938)に増築し終えているので、この写真はそれ以降のもの。

昭和13年以降 個人蔵

 

2. 駒場移転直前の全寮茶話会
駒場移転を控えた昭和10年(1935)5月21日、嚶鳴堂にて「第一学期全寮茶話会」が催され、森校長をはじめ教授陣と卒業生・在寮生が参加した。特設高等科生徒主事・竹田復は、留学生に対する所感として、現在の「百一名」の特高生に対し、「一高生活ノ真髄」に触れさせるには入寮以外に手はないとし、実際多くの特高生が寮で「満足シテ生活」できているのは日本人学生の「心遣ヒ」の賜物と述べた。さらに「今日推戴サレタ対三高選手ノ中ニモ文科三年ノ張ト理科三年ノ蘇ノ二人ガ入ツテヰル」と、対三高戦で活躍した張興漢(次コーナー資料1及び会場1展示13、14参照)や蘇景明を名指しで称賛している。寮生の演説においては、特高生の林坤義が、「特高ノ留学生トシテ自己ヲ深ク考へ精神力ヲ握」み「将来共ニ東洋ヲ背負ツテ立ツコト」を強く呼びかけた。

昭和10年5月21日(7)B2-41

 

3. 「寮生諸君の燈下に送る(読書調査)」
昭和11年(1936)11月に寮生に対し読書調査を実施し、269人分の回答の統計を採ったもの。著者別では、夏目漱石(66票)、ゲエテ(49)、トルストイ(43)、阿部次郎(37)、ドストエフスキー(29)、倉田百三(21)、河合栄治郎(18)と続く。近代文学と哲学書が多い印象だが、日中の古典も『平家物語』、『論語』(10票)、『源氏物語』(6票)、『古事記』、『奥の細道』、『孟子』(5票)等が挙がる。特高生がどこまでアンケートに参加したかは不明だが、日本の古典は国語の教科書として読まれたものと符合している(前コーナー資料3)。

昭和11年11月25日(7)B5-6-74 

 

4. 棣華会開催の案内と会則
昭和10年(1935)5月30日、午後五時半より「白十字」にて「棣華会」を開催する旨を知らせる案内状。「棣華会」は『詩経・小雅』常棣の一節「常棣の華たり。凡そ今の人兄弟に如くは莫し」から特設高等科生徒主事の竹田復によって名付けられ、日本人寮生が発起人となって結成された。「棣華」は兄弟仲が良いことに譬えられるように、「家族として兄弟として」、「虚心坦懐赤裸々」に相互の意見や希望を述べあうことが望まれた。会則には「留学生に関する諸問題を率直に懇談し渾然一なる寮生活の体現」を目的とし、寮生有志が毎月第一金曜に例会を実施することなどが見える。なお、「白十字」は芥川龍之介の小説にも登場する一高生行きつけの喫茶店。

昭和10年5月30日(7)B2-41

(7)E-1 1-12

 

5. 「東洋の抱く文化史的使命の完成へ──棣華会大会に際し寮生諸君に訴ふ──」
昭和11年(1936)6月15日、駒場移転後第一回目の棣華会春季大会の開催にあたっての声明文。昭和9年(1934)4月に発足して以来、棣華会は三回ほど開催され、一高移転に際し当時全寮生の関心の的「留学生関係諸問題」の実際的解決という使命を概ね遂行したと述べる。そして今、「新一高」の基礎を築くにあたり、単に留学生個人の勉学便宜の為に止らず「本科生と留学生の渾一融合を計り、より大いなる一高生活の完成を期」すことを寮生に向けて訴えた。末尾に発起人と思われる日本人学生と共に、茶話会で演説をした林坤義(資料2参照)や『向陵時報』で特高生としての意見を表明した蔡耀祺(会場1の資料15参照)の名が連なる。「旧棣華会委員、留学生自治団体同学会委員並びに本科生有志」という一節から、彼らが留学生自治団体「同学会」の委員として活動していたことも知られる。

昭和11年6月15日(7)B2-46

 

6. 「東洋の文化使命──棣華春季大会」
資料5の声明文と同文が寮内新聞『向陵時報』第85号にも掲載された。昭和11年(1936)6月15日の午後六時より渋谷の「白十字」にて開催、佐々木生徒主事、竹田特高生徒主事など教員も含む30数名が参加した。声明文に名を連ねる日本人学生のうち、隅谷三喜男(1916~2003)は一高文科甲類在学中に寮総代会議長を務め、後に東京大学経済学部の教授となった。猪野誠治は、昭和9年(1934)の寮歌「空虚なる」の作詞者で駒場二代目寮委員長、陸上部の選手であった。終戦直後の昭和20年(1945)8月29日に戦病死。澄田智(1916~2008)は、資料2(『寄宿寮委員記録』)を記録した第137期寮委員長で、後に第25代日本銀行総裁、大蔵事務次官を務めた。

昭和11年6月25日(7)B5-6-82

(解説執筆:宇野瑞木)

「一高における体育活動と中国人留学生」展示品概要

校章のオリーブは智と美の神ミネルバ、柏葉は武神マルスを象徴するように、第一高等学校は文武両道の精神を重んじ、以て護国の基礎を築くことを目指していた。そのため、体育活動が盛んであり、運動部は野球をはじめ、撃剣、柔道、弓術、陸上運動、端艇(ボート)、水泳、庭球(テニス)、籠球(バスケットボール)、ア式蹴球(サッカー)、ラ式蹴球(ラグビー)、乗馬、相撲、射撃など十数部に及び、非常に充実していた。

新入生が入学してしばらく経った4月下旬に各部の勧誘活動が始まった。「我等新入生が机に噛り付いて予復習に余念がない夜分を利して行はれ」、委員たちが竹刀などを手にして寮の部屋を一つずつ回り、一人ひとり捕まえては入部を勧誘したという(『向陵誌』1939年版)。勧誘は数日間続き、これを機に新入生が各部について詳しく知ることになった。

これらの運動部に所属する一高生は一年中練習に打ち込み、春季運動会、端艇を中心に行う組単位の対抗試合である組選、インターハイ、対三高(第三高等学校)戦など、校内外さまざまな大会に出場し、腕を競い合っていた。なかでも、対三高戦は最も重要な対外試合と見なされ、競技だけでなく、数百人単位の応援団による盛大な応援合戦が繰り広げられていた。

体育活動に特設予科、および後の特設高等科に所属する中国人留学生も積極的に参加し、籠球やサッカー大会で優勝するなど、たびたび好成績を収めた。とりわけ陸上運動部において留学生の活躍が目立ち、張興漢、劉世超、孫浩善など、好走者を輩出していた。また、組選を日本育ちの留学生と中国本土からの留学生をつなぐ大切な場として、特高組選部屋の設立の必要性を力説した留学生もいた。彼らが一高生活になじみ、日本人学生と溶け合ってスポーツと青春を謳歌した様子がうかがえる。

強豪校として常勝を誇った一高は昭和25年(1950)廃校となったが、肩を並べて戦っていた仲間たちは1980年代以降、向陵訪中団(同窓会活動)や訪日考察団などをきっかけに再会し、過去の情熱あふれる一高生活を語り合った。半世紀以上の歳月を越えて、なお交流が続いていたのである。

(宋 舒揚)

1. 陸上運動部集合写真
一高の陸上運動は東京大学予備門時代から始まり、明治23年(1890)10月に一高校友会が結成した際には、陸上運動部も名を連ねた。以来、たびたび輝かしい成績を残していた。本写真は駒場時代の集合写真である。一段目左から4番目に森巻吉校長、二段目に特設高等科の中国人留学生の張興漢(昭和7年(1932)入学、左から5番目か)と劉世超(昭和10年(1936)入学、右から5番目)の姿がそれぞれ確認できたことから、昭和10年〜11年頃に撮られたものと推定される。

昭和10〜11年頃(12)Z-22-2(1)

 

2. 対三高戦応援団檄文
対三高戦は明治39年(1906)の野球戦に始まり、大正9年(1920)から陸上運動、13年(1924)から端艇と庭球が加わり、毎年四部で行うようになった。慣例として7月から8月にかけて東京と京都、あるいはその逆の形で一部・三部に分けて開催していた。対外試合の精華とも言われる対三高戦であったが、昭和10年(1935)8月の庭球戦における応援団同士の乱闘事件を受け、同年10月に一旦廃止することに決定した。翌年6月には寮内の議論および両校の交渉によって復活が決まり、例年通りに開催することができた。この檄文は同年の応援団推戴式の前に書かれ、寮の外壁に掲げられたものである。

昭和11年6月26日(7)F-1-119

 

3. 昭和十一年度対三高対校戦選手及応援団幹部氏名
対三高戦応援団の推戴式は大正15年(1926)5月に嚶鳴堂で初めて行われ、校長以下の学校幹部も出席した。最初は応援団長のみの推戴であったが、昭和3年(1928)からは応援団幹部、5年(1930)からはさらに選手も同時に推戴するようになった。一高の名誉を背負って戦う代表にとって非常に光栄な行事である。昭和11年(1936)の名簿には留学生の劉世超の名前も載せられている。陸上中距離走の選手であった。なお、推戴式の様子については、『向陵誌』(1930年版)に以下のように活写されている。

推戴式は概ね昼時間を利用して、倫理講堂に於いて厳粛なる雰囲気の中に挙行される。先づ野球・端艇・陸上運動・庭球の部順に従ひ、各部選手交々と壇上に立つて副委員長に紹介せられ、次いで各部の主将は必ず三高を撃破粉砕せんと事を宣誓する。之が終れば生徒一同を代表して委員長が選手激励の辞を述べ、最後に四部応援歌と寮歌「嗚呼玉杯」を斉唱して、式の幕を閉ぢる。而も四部選手の列を正して退場する背後より、我等は「頑張れ」「必ず三高を敗れ」と咆哮する。選手は悲壮なる面持を以て、無言の儘全力を尽さん事を誓ふ。実に「風は蕭々として易水寒し、壮士一度去つて又還らず」の景其の儘である。

昭和11年11月25日(7)B2-46

 

4. 対三高戦応援団写真
応援練習は例年6月中旬に昼休みを利用して行っていた。対三高戦は「学校一致の決戦」であるだけに、「選手の技倆よりも生徒の団結如何に戦の決は懸つて存する」(『向陵誌』1930年版)。白旗(対して三高は赤旗)を振ったり、太鼓を鳴らしたりしながら、応援歌を高唱する応援団の団員たち。試合の状況とともに両校の大規模な応援も過熱しがちで、しばしば紛争にもなった。本写真は昭和11年(1936)7月15日に行われた陸上戦における応援団の様子である。旗には源氏の白地に二本の線と一高のシンボルマークである柏葉章が描かれている。

昭和11年7月15日(7)B2-46

 

5.『向陵時報』対三高戦記事
昭和11年(1936)の対三高戦を詳しく報道した一面である。この年は野球を除いての三部勝利となり、3年連続の四部全勝こそならなかったが、陸上は5年連勝、端艇は9年連勝を果たした。ちなみに『向陵時報』は大正11年(1922)6月1日に創刊され、当初は言論発表の機関誌として期待された。記事の内容が近い『校友会雑誌』との競い合いで翌年6月に廃刊となったものの、同年12月に新聞的体裁になって『寮報』に改称された。その後、昭和5年(1930)1月には新版『向陵時報』として発刊され、一高廃校まで存続していた。

昭和11年9月17日(7)B-5-6(84)

 

6.「百米」出発!刹那‼

昭和11年7月15日(7)B2-46

 

7. 対三高戦五年連勝全国高校大会制覇記念メダル
昭和11年(1936)7月15日、対三高戦の陸運戦は一高グランドで行われた。一高は12種目のうち10種目において勝利し、総合得点84.5対28.5の大差で三高を破った。陸運対三高の5年連勝となった。100メートル走は文科丙類の国分節夫選手が11秒5で優勝。2位は11秒9で理科甲類の益子洋一郎選手であった。また、一高陸運はこの年の全国高校大会(インターハイ)でも優勝を収めた。メダルはこの2大会の勝利を記念するために作られたものである。裏には「贈益子君」、「二五九六」(皇紀2596年、すなわち1936年)という文字が浮き彫りで刻まれている。

昭和11年(7)H-5-4

 

8-1. 春季運動会陸上運動部メダル(表)
8-2. 春季運動会陸上運動部メダル(裏)
春季運動会は毎年5月下旬の土曜日に開催される陸上運動部主催の大会であり、各種目と継走(リレー)の組選が行われた。ちなみに10月第一または第二土曜日には秋季運動会が開催され、同じく継走の組選があった。

昭和11年(7)H-5-3、(7)H-5-3

 

9. 向陵訪中団東北地区旅行報告
劉世超は昭和11年(1936)の対三高戦の800メートル走と3000メートルに出場し、それぞれ2分7秒3と10分13秒2の成績をマークし、いずれも優勝に輝いた。その後、京都帝国大学医学部に進学し、1941年に卒業、1943年に帰国した。紆余曲折を経て故郷の大連・旅順の病院で医師として活躍し、結核病の予防と治療に尽力した。彼は1982年、1985年に2回大連医学考察団の一員として訪日した折に、陸上部の旧友十数名が東京・京都で歓迎会を開いたという。また、1994年秋に一高同窓会の会員らが第六回向陵訪中団を結成して中国東北の各地を旅行し、劉世超を含む中国在住の特設高等科同窓12名と再会を果たした。本資料はその際に、青春をともにした仲間たちが異国の地で寮歌「柏の旗」「嗚呼玉杯」を高唱する様子を記している。

平成6年11月15日(7)C-1-3(4)

(解説執筆:宋舒揚)

※以上の資料は特記したものを除き、東京大学駒場博物館所蔵。無断転載・転用を禁じます。


  • 主催:東京大学東アジア藝文書院(EAA)
  • 共催:科学研究費・基盤研究(C)「狩野亨吉文書の調査を中心とした近代日本の知的ネットワークに関する基礎研究」(研究代表者:田村隆)
  • 協力:東京大学大学院総合文化研究科・教養学部、駒場博物館、駒場図書館
  • 資料所蔵:東京大学駒場図書館・東京大学駒場博物館