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2023.07.28

【報告】2023 Sセメスター 第13回学術フロンティア講義

2023年714日、学術フロンティア講義の最終回では、今年度もコーディネーターを務めた石井剛氏(EAA院長)を登壇者に迎えた。氏は、ご自身の専門である中国哲学を拠り所に、「空気の哲学としての新しいリベラルアーツへ――責任と希望の学問」について講演を行った。

話の出発点となったのは、これまでの講義ではあまり話題に上らなかった、言語的な意味での価値の問題であった。氏は、デヴィッド・グレーバーに因みながら、価値を「意味のある差異」の体系と定義し、『荘子』で展開される斉物論の平等(=それぞれのものが違うからこそ等しい)の思想と関連付けた。気候変動がますます激化する現在、いかにして平等に生きることができるだろうか。この問いを念頭に、氏はグローバルサウスの苦境と「空気の政治」について議論を深めることで、資源の再分配、あるいは空気の民主化というラディカルな課題を現前させた。そして、格差を生みだしてきた今までの価値体系=意味のある差異の体系とは別の体系、即ち新たな「ストーリー」の必要性と、そのための「根源的な中立性」を主張した。

ところが、新たなストーリーを編み出そうとするとき、いずれ不可避となるのは他者との遭遇だと思われる。この点は、講演後の石井氏と学生とのやり取りの中でも注目された。

報告者はここで、独自の他者論を展開し、文学におけるポリフォニーを論じたミハイル・バフチンを想起する。バフチンは、ドストエフスキーの作品の中に「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識」を見出し、「それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー」を提唱した。この思想は、講義の冒頭で紹介された『荘子』の「天籟」の概念にも通じるところがあるだろう。もっとも、ポリフォニー小説では、「それぞれの世界を持った複数の対等な意識」が、著者という「誰か」の単一の意志のもとで統合されることはなく、むしろ「各自の独自性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆく」のである。つまり、「価値を持つ声たち」のある種の「超プロット的統一性」が、一つの「事件」においてはじめて成立するというのだ(『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫、1995年)。

多元的な世界のための新たな価値体系、新たなストーリー、そして新たな学問を想像する際に、「事件性」を突き詰めることこそが意外にも貴重なヒントになるのかもしれない。そして思えば、大学という場自体が人類史上の一つの素晴らしい「事件」なのかもしれない。

 

報告者:ニコロヴァ・ヴィクトリヤ(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)これまで13回の講義を受けてきた中で(中でも前回の斉藤先生の講義と今回の石井先生の講義によって)資本主義の競争、大量生産・消費社会がいかに地球環境に無理を敷いてきたのかを理解した。そして実際にその結果として環境問題の被害を受けている人たちが存在しており(気温上昇問題が今すでにそれだけ多くの人たちの命に関わるような大きな問題になっているということは知らなかった)、その効果を受ける度合いというのは人によって異なるということを認識してきた。その中で「来るべきカタストロフィに絶望することなく」という先生の言葉が印象に残った。理由は2つある。一つ目はこの表現によって、いま我々がカタストロフィの只中にいるという事実を強く突きつけられ認識させられたような気がしたからである。二つ目はその難しい状況を自覚しつつも、前向きに社会のためになることをしようとする意志を感じられたからである。私はこのような大きな問題について考えるのが苦手である。まず大前提として、私自身が当事者意識を持つことができないし、こうした状況を変えるには多くの人々の世界の見方や行動を変える必要があるが、そうした大改革に実現可能性を見出すことができない。結果的に、世の流れという大きなものは抗うことができないものだとして、自分の手の届く範囲のことだけを考えようとしていた。この講義を通して自分の視野の狭さに気付くと共にこうした態度を少しでも改めたいと考えるようになった。中でも、看過できないのは、世界全体で起きている問題であるのにも関わらず被害を被りやすい地域・人がグローバルサウス中心にあるということである。環境問題に関するデモなどが西欧の国々で行われている様子はよく見聞きするが、実際に被害を被っている人たちの声は聞きにくい状況にあると思う。彼らのことを知り、声を聞く機会が増えることは、多くの人の考え方や行動を変える上で有用なのではないかと考えた。(教養学部4年以上)

(2)13回にわたった連続講義が、最後に、『荘子』の至人概念を補助線としつつ「根源的中立性」へと還っていくのは、驚きであり、壮観ですらあった。「根源的中立性」という理念は学生として関わる私個人にとって大変重いものであった。私個人は、大学という場の極端さを常に意識して生きている。私は、貧しい、教育水準の低い地域に生まれ、中学までその環境のなかで暮らしてきた。その後、ふとしたことから東大で学ぶという幸運に与ったわけであるが、結局のところは周囲の理解と巡り合わせにすぎないと思う。もしかしたら、強盗を犯して収監されている中学の同級生たちと同じ立場に置かれていたかもしれない。彼らと比べて自分の置かれた立場を相対化すると、社会において大学に通うということがいかに極端なことかわかる。この現実も常に意識されて然るべきであると思う一方で、「根源的中立性」の間の溝をいかに埋めるべきであろうかというのが私の問いである。この問いにアプローチすることは気の遠くなるほど時間がかかるであろうが、生きることそれ自体がこの問いにアプローチすることであるようにも思える。また、話は大きく変わるが、講義全体を振り返れば、今年度の隠れたテーマは、「産学共創の価値化」であったとともいえよう。私は前期課程在学中もこの連続講義を受講したが、そのときとは異なり今年度は、ダイキン工業に一見阿ったかのような「空気の価値化」というテーマが設定された。その結果、この連続講義が生きていく上で欠かせないものの普段は認知されない「空気」のような存在としての「産学連携/産学共創」の意義を問い直すという裏のテーマがはっきりと立ち現れた年度となったと思う。実際、ふと思い返すと、私のリアクションペーパーもそのような性格をもつものが多かったように思う。ある友人などは「癒着の正当化」などと揶揄していたが、この状態は、ある意味で裏テーマの思う壺であると思う。本来、何年も前からこの連続講義の空気であった「産学共創」がしっかりと意識され、その問題を含めて、その価値へと思考が誘われてしまっている。その意味において、今年度のテーマ設定の妙はいかんなく発揮されたと思う。最後となりますが、石井先生はじめ、今年度の連続講義を企画・運営、そしてそこに登壇された方々に深く感謝申し上げます。(教養学部3年)