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2023.08.08

【報告】2023 Sセメスター 学術フロンティア講義「30年後の世界へ—空気はいかに価値化されるべきか」後半を振り返って

【報告】2023 Sセメスター 学術フロンティア講義「30年後の世界へ—空気はいかに価値化されるべきか」後半を振り返って

学術フロンティア講義「30年後の世界へ—空気はいかに価値化されるべきか」の後半において、私たちは一見論争のようなものを目撃した。石井菜穂子氏の「グローバル・コモンズを守り育むために」に対して、経済思想家でありマルクス主義研究者の齋藤幸平氏が明確な反論を示された。無論、当人同士が直接議論を戦わせたという類の話ではない。齋藤氏に(よい意味で)議論を吹っ掛けられたのは、むしろ私たち聴講者の側だったと言った方がより適切かもしれない。

石井氏は、脱炭素に係る地球規模の課題解決に向けた枠組みとして、様々な非国家主体のステークホルダーによる連携がより実効的であると指摘された。そのような主体を連携や協調へと導くためには、対処されるものの価値が明示的に共有される必要がある。ある種の共通言語とも言える貨幣価値への換算、あるいは値付けという操作によって、はじめて国家間にまたがる森林のようなグローバル・コモンズを守るための共通認識および仕掛けが立ち上がるという理論である。

この点については、坂田一郎氏の「ステイクホルダー価値を軸とした企業社会のパラダイムシフトと空気の価値化」においても同様の解説がなされた。同講義の重要なメッセージの1つは、社会問題等の解決を目指すミッション型企業経営が市場価値を拡大させる中で、従来別物として扱われてきた経済的価値創造とCSRのような社会的価値創造がオーバラップする傾向にあるという点ではなかったかと思われる。

そして、それら2つの価値創造を貨幣という枠組みの中でオーバラップさせることは本当に望ましいか、という聴講者からの質問に対し、坂田氏はグローバル・コモンズを対象とする場合は貨幣化の原理が必要になるのではないか、という見解を示された。ここには、石井氏も指摘されたようなローカル・コモンズとの対比がある。例えば、日本において入会地として村人あるいは村々によって共有されてきた森林の数々は、貨幣化の原理がなくともコモンズとして維持されてきた。なぜなら、そこには村人同士、あるいはこっちの村とあっちの村といったような、顔の見える関係が共通の利害意識の上に存立しているからである。他方、グローバル・コモンズに話が及んだ途端、それはあたかも他人事になってしまう運命にある。

一方、齋藤氏の「空気が商品になるとき—炭素税、CCS、ジオエンジニアリング」は、コモンズの維持という文脈に貨幣化の原理を持ち込むことそれ自体に強く反対する。とりわけ同講義は、石井氏、あるいは前半の安田洋祐氏の講義では触れられていなかった炭素税やカーボンクレジットの問題点を指摘する。それらは、環境負荷に係るコストを市場メカニズムに内部化することによって温室効果ガスの排出を抑制しようとする企てであるが、齋藤氏が批判するのはそのロジックの背後に横たわる前提そのものである。

二酸化炭素排出に係るコストを内部化する過程において、動物や植物、あるいは生態系の二酸化炭素吸収量が値付けされる。そして、国・地域単位、ひいては地球全体での総吸収量に対するそれらの貨幣価値がGDP換算の文脈に登場する。一度GDPという数字に置き換えられたそれらの二酸化炭素吸収効果は、代替可能性(substitutability)というトリックを有するようになる。例えば、A国のバイオマス発電用燃料を生産するためにB国の森林が丸裸にされたとしても、それは気候変動対策という正義の結果としてB国のGDPを押し上げる。あくまで数字だけ見れば、経済成長だなんて喜ばしいということになる。しかし、GDPは生態系の破壊や空気の汚染など一向に顧みることはない。かくして、グローバル・ノースにおける気候変動対策によって、経済的に立場の弱いグローバル・サウスの自然資本が害を被ることになる。

齋藤氏は言う。SDGsはアヘンだ!

ここまで来ると、石井氏と齋藤氏の議論はほとんど平行線のようにも見えるが、全く接点がないわけでもないようだ。(それ故に、冒頭では「一見論争のようなもの」と表現しておいた。)

まず、齋藤氏は炭素税導入そのものに全く反対しているわけではない。お金持ちは炭素税を逃れる手段にすぐに切り替えることができる一方、貧しい人はいつまでも課税対象というジレンマは確かに存在している。それでも、炭素税による税収を活用することで、人々の行動を環境に優しい方向へと誘導することはできる。何もしないよりはマシという論理である。

他方、石井氏の講義もまた重要な示唆を含んでいたように思われる。聴講者との質疑応答の中で、消費者や投資家といった個々人の集合的判断および選択が最終的には変化(変革)を促す圧力として機能するのではないかと言及されている。若い人々は本当に地球環境問題の解決に貢献したいと思っている。若いタレントを集めたいと思ったら、企業は地球環境問題の解決に向けた明確なビジョンを示さなければならない。そのような石井氏の言説を聞いて、私はかつてダイキン工業の役員の方がおっしゃっていたことを思い出した。

「以前は、あくまで努力目標程度のこととして「我が社は地球環境問題に貢献します」などと就職説明会で話しをしたりしていた。ところが、最近の新入社員は、空調機器等の開発を通じて本気で地球環境問題を解決したいと思っている。そういう想いをちゃんと汲み取れるような会社にしていかなければならないと思う。」

「空気の価値化」などというお題が与えられると、どうもそのための仕組みや制度といった議論になりがちである。他方、与えられた仕組みや制度、あるいはモノやサービス等を判断し、選択する個々の価値意識こそが、究極的にはそれらを運用、改善、または時として拒絶するための集合的な力となって現れるはずだ。それは、前半の中島隆博氏の講義においても少しばかり議論されていたように思われる。

佐藤健二氏の「ひとと空気の歴史社会学:空気にも歴史がある」は、そもそも価値概念とは何かを問う上で、社会学者見田宗介による「価値意識の理論」を援用している。佐藤氏の解説によれば、主体(見田の時代における「主体」とはすなわち「人間」であったといって差し支えない)による意味付けがなされることによって、はじめて物事の根源的な価値が立ち上がってくる。詰まるところ、空気であれ何であれ、物事の価値が立ち上がる原理に迫ろうとするのであれば、私たち人間に意味付けという行為をさせている私たちの価値意識について理解しなければならない。

そして、見田によれば、私たちの価値意識は、欲求性向と規範意識によってかたちづくられている。それらは相反する方向性を有している。欲求は幸福を指向し、規範は善への到達を目指す。このような欲求性向と規範意識の関係は、坂田氏が解説された経済的価値創造と社会的価値創造の関係に対応していると理解することが出来なくもない。実際、佐藤氏は、いずれも「望ましさ」に根を下す欲求性向と規範意識の融合が、経済合理性一辺倒に対峙する概念を生み出すのではないかという見立てを示された。

このような考え方は、坂田氏の議論と何ら矛盾しない。坂田氏は、経済的価値創造と社会的価値創造のオーバラップをもたらしている要因として、企業社会において価値を推し量るための評価軸が変化していることを挙げている。コスト、性能、品質、耐久性といった工業化時代の評価軸が、脱炭素への貢献、自然資本の維持再生、サーキュラーエコノミー、倫理、正義感、信頼感などに取って代わられようとしている。

それでは、空気を含む自然資本の維持再生という地球規模の課題は、私たちにどのような「望ましさ」の規範を要求しているのであろうか?資本主義社会に生きる私たちの欲求性向と規範意識の融合を促し、新しい価値(意識)の創造に資する「望ましさ」の規範とは一体どのようなものなのであろうか?

これらの問いにすぐさま答えを出すことは不可能である。それでも、本年度の学術フロンティア講義を通じて、ヒントとなるようなキーワードが2つほど出てきたように感じている。

1つは、建築家川添善行氏の「建築と空気」において示された「他者性」の概念である。同講義では、《東京大学総合図書館ライブラリー・プラザ》などの川添氏の作品並びに研究活動の例示を通じて、建築(学)がいかに「空気」と「空間」を扱っているかについて説明がなされた。もし、建築におけるモダニズムの問題が概して「造形」にあったとすれば、ポスト・モダニズム以降はより明確に「空間」の創造が(動詞としての)建築の主たる課題となったと言うことができる。川添氏にとって空間とは、様々な素材、色、ヴォリューム等を駆使して建築家がデザインする定性的な領域である。他方、現代建築において絶えず要求される快適性の追求は、空気を含む屋内環境を定量評価かつコントロールの対象へと変えていった。

その結果、近代以降の建築は、どこまでも視覚重視になり、場に依存する気配なり「空気感」を失ったと川添氏は考える。そして、川添氏は、昨今古民家のリノベーションが流行していることを引き合いに出し、それらの古い建築にしかない空気感の魅力が再認識されていると指摘する。(それらは、建築家が設計したものではない!)多くの人々は、古民家から感じられるある種の威厳、神秘性、懐かしさ、親しみやすさといった雰囲気をなんとなくよいものだと(おそらくは文化的に)感じている。川添氏は、それらの魅力の根源を他者性に見出す。

古民家のあちらこちらには、傷や汚れのようなものも含め、誰かの生活の痕跡が刻み込まれている。それらの様相はデザインされた結果として現前しているわけではない。逆説的に、誰かが守り、住みこなしてきた竣工後のプロセスこそが、古民家の空気感を意図せずデザインしてきたと言うことができるかもしれない。それらの視覚情報は、住まうことを巡る私たちの経験や知識と共鳴し、私たちに古民家における住まい方を自ずと連想させるのではないだろうか。詰まるところ、なんとなくよいというある種の直感的な「望ましさ」は、誰かによる意図せざるデザインが有する他者性に由来している。

この他者性というキーワードは、学術フロンティア講義前半の中島氏、小川さやか氏、山本浩貴氏の講義にも通ずるところがある。例えば、文化人類学者の小川氏によれば、タンザニアの零細商人の間に見られるお金の貸し借りは、多くの人々がイメージするような厳格な期日に基づく取引ではない。それらは、他者に固有の時間があることを前提としている。誰にでも調子(景気)がよいときもあれば、悪いときもある。そのリズムは人それぞれ異なる。だから、貸したお金がすぐに帰ってくるとは最初から期待していない。にもかかわらず、タンザニアの零細商人たちは、小金が貯まったらすぐお金を誰かに貸してしまう。

小川氏は、タンザニアの零細商人が貸し借りをしているのは、究極的には誰かが生き延びるための時間、あるいはやり直すための時間であると説明する。換言すれば、お金の借り手は、貸し手に与えられた時間を生きている。借りたお金は借金返済などですぐになくなってしまうかもしれないが、一度与えられた時間、さらには貸してもらったという事実は返すことすらできない。かくして、彼らはいつも誰かとお金(時間)の貸し借りをしながら、誰かの時間(人生)を「互いに生き合っている」。それは彼らにとって、困ったときに誰かに生き延びるための時間を与えてもらうための人生戦略なのである。お金の貸し借りを通じて相互に与え合う時間という他者性の世界を生きることが、彼らにとっての「望ましさ」の規範として機能している。

学術フロンティア講義では、私たちがこれからの「望ましさ」を考えていく上でもう1つ有益と思われるキーワードが浮かび上がった。それは、EAA院長石井剛氏の「空気の哲学としての新しいリベラルアーツへ—責任と希望の学問」において提示された「根源的な中立性」の概念である。

最終回の石井剛氏による講義は、その他の講義が経済学的な意味での価値や社会的な意味での価値観について吟味したのに対し、ほとんど忘れ去られていたと言ってもよい言語学的な意味での価値に私たちの目を向けさせた。それは、ソシュールの言う「意味のある差異」の体系から生じる価値である。ソシュールのロジックに従えば、AとBの間に「大きい・小さい」「高い・低い」「広い・狭い」などといった意味が見出されることによって、はじめてAまたはBに何らかの価値が発生する。別の言い方をすれば、AとBの間に何らかの勾配が見出されたとき、より高い位置にある方が価値あるものとして認識される。このような言語学的な価値の原理は、奇妙にも資本主義の論理と親和性があるように見える。

石井剛氏は、このような現在の差異の体系から何らかの別の体系への転換可能性を検討する上で、モノが平等であるとはどういうことかを問う荘子の『斉物論』を引き合いに出された。石井剛氏によれば、『斉物論』はそれぞれのモノが違うからこそ等しいという前提に立脚している。これは、ソシュールの「意味のある差異」の体系とは明らかに異なる。『斉物論』の世界には勾配がない。あらゆるものが全て同一平面上に分布している。そこにはX軸やY軸といった発想もなさそうだ。石井剛氏の言う根源的な中立性、つまり我を失うという発想は、このようなフラットな世界に出発点がある。

それでは、『斉物論』のようなフラットな世界において、いかに価値が見出されるのであろうか?石井剛氏が紹介された文化人類学者デヴィット・グレーバー『価値論』の言説があまりにも重要に思えるので、ここで改めて引用させて頂きたい。

「見る者はつねに、その奥の方に、さらになにかがあることに、ぼんやりと気づいている」(p. 174)

「モノに現在の形式を与えることになった過去の欲望や意志の歴史の存在を認めるというだけではなく、まさにその認識それ自体によってその歴史が新たに活性化され、自分自身の欲望と願いと意志とをつうじて延長するということをも認める」(p. 188)

詰まるところ、空気を含むあらゆるモノの価値は、他の何かとの差異の中から発生するのではなく、絶えず変化しながら歴史的に引き継がれてきたものとして、すでに私たちの認識の中にぼんやりと存在している。それらは、モノを巡る新たな「望ましさ」と出会うことによって、再び活性化されることを待っている。

さて、空気はいかに価値化されるべきであろうか?

このエッセーの締めくくりがいかにも人文系研究者の独り言のようになってしまい大変恐縮ではあるが、まずは文学や思想、あるいはアートなどの力を借りながら、昨日という近い歴史も含め、空気の歴史性を(再)発掘し、表現または可視化してみることからはじめてはいかがだろうか。

最後に、学術フロンティア講義の運営を支えて頂いたEAA特任助教・特任研究員・学術専門職員、UTokyo OCWの皆様、そして同講義の主役たる聴講者の皆様に、深謝の意を表する。

野澤俊太郎(EAA特任准教授)