プロジェクト
一高プロジェクト

一高中国人留学生と101号館の歴史展

一高中国人留学生と101号館の歴史展

パンフレット(PDF)

会場1:101号館エントランス(会期:2020年2月7日~)
会場2:駒場図書館1階展示コーナー(会期:2020年3月20日~4月2日) ※延期


展示趣旨

2019年4月に発足した東京大学と北京大学の共同教育研究プロジェクト「東アジア藝文書院(EAA)」では、東京大学教養学部の前身である第一高等学校における中国人留学生受け入れに関する歴史を紐解く「一高中国人留学生と101号館の歴史展」を開催することになりました。

明治32年(1899)、第一高等学校は、初めて清国より留学生8名を聴講生として受け入れました。これを嚆矢とし、明治36年(1903)には、文部省より京師大学堂からの留学生30余人の教養教育に関する一切の事務を委嘱され、翌年には留学生を入寮させ、授業も開始しました。さらに明治40年(1907)には、清国政府の要請により、文部省は毎年数十名の清国留学生を第一高等学校に入学させ、卒業後は帝国大学に進学させることと定め、その翌年に一高の予備教育を担う「特設予科」が設置されるに至ります。その後、昭和7年(1932)に「予科」が廃止されるまで、中国からの留学生延べ800名以上が卒業しました。同年「特設高等科」が設置され、ここで三年間学んだ留学生が各大学へと進学する途を開きました。

昭和10年(1935)に第一高等学校が駒場へ移転するにあたって、「特設高等科」の留学生たちの学舎となったのが、101号館です。EAAは、このような歴史的背景をもつ101号館に駒場オフィスを構え、本年度より東京大学と北京大学が手を携えあって、人類共通の未来を描くためのプロジェクトとして始動しました。これを記念し、本展覧会を企画いたしました。

また本年度は教養学部70周年の年にあたり、本展示もその一環として位置づけられるものです。この度の展示は、二つの会場で開催いたします。会場1(101号館内)の展示は、「特設高等科」が設置され、一高が駒場に移転してきた昭和10年(1935)前後の資料群(駒場博物館所蔵)が中心となっています。会場2(駒場図書館内)では、上記の資料に加え、中国人留学生の受け入れが始まった時期に校長であった狩野亨吉に関わる明治30年代(1897~1906)の文書類(駒場図書館所蔵)も展示いたします。いずれの展示も、駒場キャンパスに残された教養学部の前史を知ることができる貴重なものとなっております。

本展示が、歴史を鑑としながら、よりよい東アジアの未来を、引いては世界の未来を築いていくための「新しいリベラルアーツとしての東アジア学」構築と発信に向けての力強い一歩となることを祈念しております。

東京大学東アジア藝文書院(EAA)

開催に寄せて

2019年、東京大学教養学部は創立70周年を迎えました。それを記念する行事の一つとして「一高中国人留学生と101号館の歴史展」が開催される運びとなりました。

101号館は、1936年に第一高等学校にて中国人留学生が学ぶ「特設高等科」専用の講義棟として建てられました。駒場には、他にも特設高等科専用の物理学・化学・生物学の特別教室が増設され、また特設高等科のための寄宿舎(明寮)が建設されていました。しかし現存しているのは、この101号館だけです。

当時の貴重な資料から、留学生たちがどのような思いを胸に日々学び、悩み、また日本人の学生や教師とどのような関係を築いたのかといったことに、ぜひ想いを馳せてみてください。

2020年2月7日
東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長 太田邦史

 

展示品概要

1. 空から撮影された移転当時の駒場キャンパス
第一高等学校が駒場に移転してきた当時の新校舎の様子。既に、時計台のある本館(1号館)、特設高等科教室(101号館)、図書館(現・駒場博物館)、寄宿寮三棟などが建ち並んでいる。一方で、明寮が未建設のため、昭和11年(1936)から12年頃の撮影であろう。一高は本郷の地名・向ヶ丘に因んで「向陵」と称されていたが、昭和10年(1935)9月の移転式での森巻吉校長の命名により、地形が平坦な駒場も「新向陵」としてその名を受け継いだ。昭和12年(1937)の寮歌「新墾の」には、「新墾の此の丘の上、移り来し二歳の春」と謳われている。

 

2. 第一高等学校平面略図
第一高等学校時代の駒場キャンパスの平面略図。敷地の東側に並ぶ横長の北・中・南寮3棟の北側に留学生のための明寮があった。駒場キャンパスの設計を引き受けたのは、本郷の東大および一高の建物のデザインを一手に担った建築家・内田祥三。一高の駒場移転に際し、内田は「一高のためになるようにやるから」と約束。その言葉通り、駒場を本郷と同じようにデザインしただけでなく、高校生が喜びそうなアイデアとして雨天でも寮から傘なしで特設高等科教室、図書館、講堂などに行ける地下通路を建設した。これにより起床五分でトイレ、洗面、朝食を済ませ、教室の点呼に間に合わせるという離れ業も可能であったという。

 

 

3.「特設高等科教室」図面
特設高等科が設置されたのは、駒場移転の3年前の昭和7年(1932)6月であった。学科を文理に分け、学科毎の定員を30名とした。満16歳以上の男子で、公使館や領事館の紹介書を添えて出願し入試に合格した者が4月に入学。特設高等科は留学生だけの課程で、本教室は特設高等科のための専用教室として建てられた。1階は事務室・主任室・教官室など運営機関と図画教室・語学教室、2階は大教室・普通教室があった。学科は一高の高等科とほぼ同じだが、国語の毎週授業数が二倍である点と、昭和8年(1933)以後、外国語にドイツ語が加えられた点が異なっていた。特高生は、ここで三年間、日本人向けの高等科と同等の教育を受けてから日本の各大学に進学した。

 

4.「特設高等科 物理学・化学・生物学 特別教室」図面
本館(1号館)の左後ろ、現在の10号館のあたりにあった物理学教室の校舎の北側と西側に、特設高等科専用の物理学・化学・生物学の特別教室2棟が廊下で連結する形で増築される予定であったことがこの図面から知られる。2棟ともに「階段教室」と「実験室」の二種類の教室があった。空襲で焼失してしまったが、資料2に拠れば、実際にはこの図面と少し異なり、北側の校舎は左翼の先に直結する形で建てられていたようである。

 

5. 留日学生数および一高特設予科・高等科修了生数の統計
中国人留学生の受け入れの歴史は、明治
29年(1896)に13名が東京高等師範学校に入学したことをもって幕を開いた。その後、留学生の数は増え続け、ピーク時の190506年頃には8000人に達した。日本の高等専門教育の水準を高く評価した中国側では、科挙制度廃止(1905)に伴う教育改革を通して、日本留学もまたエリート養成の重要な手段と看做すようになっていた。明治41年(1908)に一高に設置された特設予科(一年間)の初の修了生は90名であり、浙江・湖南・広東からの学生が半数を占めていた。昭和7年(1932)に予科が廃止され、代わりに設置された特設高等科(三年間)の最初の修了生は13名であった。

 

6. 大正六年特設予科修了証書
特設予科の修了証書。留学生向けの一高の特設予科は明治
41年(19084月に創設された。一年間の課程を了えると、高等科に進んで、日本人学生と共に学んだ。「第一部」というのは、文科に当たる課程で、第二部・第三部と比べて歴史の時間数が多く、図画の時間がない。この人物の出身地である江西省からの留学生は例年多く、広東、浙江、湖南と並んで、上位を占めていた(資料5参照)。 特設予科は昭和7年(1932)に廃止され、代わりに高等科と平行して別立ての特設高等科が設置された。昭和12年(1937)には、特設高等科に付属予科も設置された。

 

7. 卒業写真(特設高等科)
昭和10年(1935)3月の特設高等科全部の写真。当時の校長は森巻吉で、前列中央に写っている。森と左右の教職員を除くと、57名の学生が写っている。特設高等科は三年制の課程であるが、三学年合わせての集合写真だろう。いずれも学生服姿で、眼鏡も目立つ。この写真を一目見ただけでは、「特高」の生徒、すなわち中国人留学生の集団とは思われない。それだけ、日本の学生生活に溶け込んでいたといえるだろう。

 

8. 特設高等科教室(101号館)の外観
旧特設高等科教室である101号館は、鉄筋コンクリート造2階建で、昭和10年(1935)3月に一部建設された後に増築され、昭和11年(1936)1月31日に完成した。『寄宿寮委員記録』(昭和10年5~7月)には、「特高ノ教室ノ建築モ進ミ両翼ガ今年中出来ルラシイ」とあり、増築したのは両翼部分だったことが知られる。当時は「特高館」と略称された。「東京帝国大学というものが一つのものであるから、それが一つであるような設計」にするという信念のもと、本郷と同様、駒場のデザインも担当した内田祥三の設計。内田建築に特徴的な質素かつ剛健で強い形や線、玄関ポーチの様式が認められる。

 

9. 森巻吉と夏目漱石
漱石夫婦と森夫婦のおそらくはプライベートな写真。大正3年(1914)のもの。森は東大英文科在学中に漱石と出会っている。最初、森は、勿体ぶったように見えた漱石に対し反抗的であったが、次第に漱石の学殖に魅了され、自宅を訪れて教えを請うようになった。森が大学を卒業した後、清国留学生の英語教師として一高に招かれたのは、当時一高でも英語を教えていた漱石の口添えがあったためという。漱石が教職を離れるまでの約二年半の間、二人は同僚であった。

 

10. 本郷から駒場への行軍
本郷の東京帝大の隣に位置していた一高は、駒場にあった農学部を近くに寄せて、本郷地区一帯において総合大学としてまとまろうとしていた帝大との間で用地を交換することとし、昭和
10年(19359月に駒場に移転してきた。移転時の校長は森巻吉。生徒たちは、日露戦争の日本海海戦に際しての東郷平八郎の言葉、「皇国の興廃此の一戦にあり」をもじり、一高が「向陵」と呼ばれていたことから、「向陵の興廃この一遷にあり」と唱えた。914日の朝、本郷で訣別式が行われた後、森の「さあ行こう」の声とともに小銃をかついで武装行進が開始され、二重橋前、渋谷の繁華街を経て、約三時間をかけて、駒場に到着した。

 

11.「一高前駅」の周辺を闊歩する一高生
昭和8年(1933)帝都電鉄が開業した当初は「西駒場駅」と「東駒場駅」があった。一高移転にもとない、「東駒場駅」が「一高前駅」に改称され、のちに「西駒場駅」も「駒場駅」に改称された。昭和40年(1965)に駅間距離が近かった両駅は統合され、現在の「駒場東大前駅」となった。木造の駅舎の横を、満開の桜道を颯爽と一高生が歩いていた。制服や着物で駅に向かう姿は、現在の駒場東大前を彷彿させる通学風景であった。

 

12-1, 2. 寮の廊下で隔てられた自習室と寝室
寮は廊下を挟んで自習室と寝室(四人部屋)が並ぶような構造であった。ベッドは万年床で、試験が近くなると、一高生は消灯後「家を脊にして居る蝸牛の様に、蒲団の中から頭だけ出して、蝋燭の光で勉強してい」たと言う。また、コンパを開催したり、ストームを興ずるなど、寮ならではの集団生活を送っていた。とりわけ一高名物のストームは、新入生にとって恐ろしいものであった。夜中に銅羅を鳴らし、荒々しい声で歌いながら就寝中の新入生を起す先輩たち。「寝た振りをして、畳から蒲団諸共引きずり落とされる奴もある」ほど、いまでは考えられない大騒ぎな行事であった。「一晩にストームが二三回来る事も稀ではない」(『向陵誌』1939 年版)。

 

13. 留学生・張興漢の活躍(昭和7年(1932)5月の春季運動会にて)
一高は体育活動が盛んであり、留学生も積極的に関わっていた。運動会や対三高戦など、一年中様々な試合を行っていた。なかでも、春季運動会は陸上運動部主催で、毎年5月下旬の土曜に開催されていた。本写真に写る張興漢は吉林省出身で1912年生まれ。運動は唯一の趣味であり、陸上競技に相当自信があり、中学校時代は陸上運動部および籠球部の委員、主将として活躍したほどの健児であった。中学校卒業後来日し、昭和7年(1932)4月に一高の入学検定に合格した。同年5月7日の春季運動会では、寮生の部に出場し、2分21秒で800メートル走に優勝した。翌月には特設高等科が設置され、その文科に編入した張は陸上部に入部し、猛練習に励んでいた。笑顔で楽しそうに走る張興漢の姿を記録した、貴重な一枚となる。

 

14. 留学生・張興漢らの優勝写真(昭和11年(1936)2月18日)
張興漢の活躍は止まらず、対三高戦でも鮮やかな成績を収めた。昭和10年(1935)夏の対三高戦において、彼は400メートル走と800メートル走に出場し、それぞれ54秒2、2分6秒8で優勝した。ちなみにその年一高は陸運、端艇、野球、庭球の対三高四部全勝を遂げた。本写真はそれを記念するために撮られたものと思われる。裏には、張興漢(後列左から一番目)、趙星元、孫浩善、劉世超(後列右から一番目)の名前が記されており、前列の真ん中は森巻吉校長である。また、劉世超(旅順出身、1917年生まれ、特高理科)も運動が得意で、昭和11年(1936)夏の三高戦では、800メートル走と3000メートル走で見事優勝し、一高対三高、陸上5年連勝に貢献した。

 

15. 留学生の寮生活と日本人学生との関わり
昭和11年(1936)4月16日、森校長は特設高等科の生徒を収容する寄宿寮がない点を「多大ノ困難」と訴え、文部省と外務省に至急予算に計上し工事に着手したい旨を通知している。寮内新聞『向陵時報』86号(昭和11年9月17日)で中寮の杉山伊佐武は、「新向陵」を礎くにあたり留学生問題が最も重大な課題であり、寮の自治を妨げかねない状況にあると述べ、留学生の疎外感や孤独を推し量り、日本人側から積極的に歩み寄る努力をすべきであると訴えた。これに対し、翌月号で蔡耀祺は「我々は淡白にこれを受入れて、一考すべき」「深く感謝の意を表する」と応答した上で、留学生側が「寮生活の無意義」を感じている点を問題視し、より深く「寮生活」に「突入」し、その意義を掴むことが必要であると述べている。一方で、留学生の中で「一高精神」のように「特高精神」と唱え、議論する者があること、「特高組選」が成立して既に野球・蹴球・籠球の組選が組織され、日々練習に打ち込む姿があること、また第四寮(明寮)ができることなどへ希望を見出している。寮内新聞でのやり取りからは、彼らが当時抱えていた問題、そしてそれに対し冷静に見つめ、互いに理解し歩み寄ろうとしていた姿がみてとれる。また、明寮の建設がいかに留学生たちにとっても待望であったかが知られる。なお、明寮が完成したのは昭和12年(1937)4月で、さらに翌年5月に増築された。

資料所蔵:駒場博物館
解説執筆:宇野瑞木(EAA特任研究員)
高原智史(EAAリサーチ・アシスタント)
舒揚(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)