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2022.06.20

【報告】2022 Sセメスター 第9回学術フロンティア講義

2022年6月10日に行なわれた柳幹康氏(東洋文化研究所)の講演は、共生の問いを使った仏教への手引きのようであった。そこでとくに問題となったのが、「智慧」と「慈悲」という概念の組み合わせである。柳氏によると、仏教から共生を考えるとき、他者への慈悲がひとつの鍵になる。とはいえ、ひとはどうすれば慈悲をもてるのだろうか? 一般的に、仏教では智慧と慈悲が同時に、あるいは自然に得られるとされている。だがじつは、両者のつながりは自明ではないのではないか——柳氏はそう語った。

 

柳氏が引き合いに出した江戸期の禅僧・白隠は、慈悲は智慧から流れ出ると考えたという。すなわち自分自身や自己の利益を優先する考えが消えるとき、智慧が完成され、それによって慈悲が生じるというのだ。あるいは、共感をもって他者のためになること(利他)につとめれば、自己を優先する思いが消えてゆくのかもしれない。そこで柳氏は、ひとつの解として、他者の救済をつうじて自身を救済するという筋道を示した。

もっとも、ここにはいくつかの飛躍があるのも事実である。質疑応答では、この共感と利他の関係性が問われた。つまり自分に固執せず他者へ共感する心をもったとして、それは必ずしも他者のための行為へと結びつかないのではないかということだ。たとえば、ひとは悲しいニュースを見て心を痛めるかもしれないが、それによって実際に何らかの行動を起こすひとは決して多くないだろう。

 

私見では、少なくとも共感と利他の関係について、中国哲学はひとつの答えを提示しているように思われる。よく知られるように、孟子は、およそひとには仁の端緒である「惻隠」すなわちあわれみの心があると論証するにあたり、井戸と赤子の例を用いている。「幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうととっさにすることで、もちろんこれを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達から褒めてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない」(『孟子(上)』、小林勝人訳注、岩波文庫、1968年、141頁)。要するに孟子は、端緒というもっとも素朴な次元において、思考や反省を介さず咄嗟に身体が動くような反応として——いわばヒト科の動物の標準機能として——共感と利他のつながりを肯定しようとしたのではないか。

とはいえ、困ったことにこの教えを疑うこともさほど難しくない。たとえあわれみの心が働いても咄嗟に動けないひともいるだろう。あるいはそもそも心を傷めることすらなく、平然と見捨てるひともいるのではないか?

こうして問題は、またも共感と利他の関係に回帰する。慈悲と智慧の問いはもちろん、これもまぎれもない難問だ。しかし難問でなければ真面目に取り組む意義もない。私たちはじつに大きな宿題を受け取ってしまったものだ。

 

報告者:伊勢康平(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)自分を優先する限り、自分の悩みは尽きないという白隠の言葉が印象的だった。そして輪廻転生の考え方から、悩みが尽きないことが恐ろしいことであると分かった。しかし、利他的な行動を取ることで悩みがなくなることはないと思う。そもそも悩みがなくなることが良いことなのかも分からないが、利己的であるか利他的であるか、どちらが幸せになるのかを自らの経験のなかで考えてゆきたい。(文科一類2年)

(2)欲望、あるいは欲を満たすことが人間の行為の動機付けなのではないかと思う。それなしで人間が行動することがあるのか、自分にはわからない。だから、仏教において欲を満たすことが否定的に捉えられていることで、利他という究極的な目的、悟りの境地に達することが可能なのか疑問だった。最後に共感と利他の距離についての話があったが、そこに距離があるのも仏教が欲を否定的に捉えるからではないのかと思った。白隠の言った利他が自利の方便であるという考えが、そもそも欲望なくして利他が成立しないことを表しているのではないか。最後の質問者も述べていたが、欲をある程度肯定的に捉える視点も必要なのかもしれない。(理科一類)