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2021.06.10

映像制作メモランダム(5)

6月9日(水)に通算で16回目になる映像制作ワークショップが終わりました。現時点でのシナリオにもとづき、具体的な進行スケジュールの見通しが立ったところです。当日は制作メンバーにくわえて、ひさしぶりに企画立案者でもある石井先生に参加してもらい、思いがけず、希望や歴史、信といったモチーフについて意見交換することができました。そうしたテーマをどのように作品において表現するのかが、今後、問われてくるだろう、と課題を共有する時間になったと思います。最後、閉鎖空間における秘密の共有と光を照らすことで秘密が失われる話になったのは、個人的にはスリリングでした。

こうやってあれこれ実際に「撮る」ことにフォーカスする2ヶ月を経て実感するのは、自分が世界でいかになにも見ていないのか、見えていないのか、ということです。なにかを映像として記録に残せば、後からでも見ることができるだろう、なんて単純な話ではなくて、なにか「よく見る」ことが、「撮る」ことによってはじめて可能になるような、そんなよくわからない感覚を抱きはじめています。たとえば、地下道で閉ざされた扉を開き、進もうとするときに、扉の先を予感して「見ている」感覚を得ました。そんな自分の動きと見方は、実際にその場で、撮ることになって初めて実現した気がするし、それは、ある意味では、創られた経験でもある。

また、素朴に、「映像」と「映画」、「静止画」と「動画」の見え方が、どのように違っているのか、いい意味で、わからなくなってきました。自分が動いていると、壁も絵も落書きも動いてみえる。なにによってその見え方が変わってくるのか、たとえば地下道の見たことのない壁の染みと凹凸を見つめながら、これがなんなのかと角度を変えつつ見るうちに、時間が経過する長さに驚いたりしています。

大江健三郎の小説に『美しいアナベル・リイ』という、壮大な「M計画」と呼ばれる映画制作をめぐる物語があります。これは大江をモデルにしているだろう主人公の「私」と木守が駒場時代の同級生という設定で、むかし駒場のキャンパスで肩を並べて歩いたことが回想される場面があります。それをいま読むと、1954年、1955年頃に、彼らがここを歩いていたのかもしれない、というふうに、ただ2人の姿を思い描くだけでなく、すこしだけ、いまはもういない一高生たちの姿に重ねて想像する自分がいます。こんなふうに、よく見ずに通り過ぎていた世界があちこちに無数にあり、これからも無限に見つかるだろうことを感じる日々です。

現在、RA3名は、制作だけでなく、一高に関連する映像アーカイブの調査も鋭意進めています。自分は主にスケジューリング担当なのですが、見ているかぎり、静かにいろいろなアイディアが形を求めはじめているので、どうかこの動きの展開を楽しみにお待ちください、という気持ちでいっぱいです。

 

 

 

報告・撮影:髙山花子(EAA特任助教)