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2022.07.11

【報告】2022 Sセメスター 第12回学術フロンティア講義

2022年71日(金)、学術フロンティア講義「30年後の世界へ——『共生』を問う」の第十二回として、王欽氏が「共生を求めること・共生を堪えること――魯迅を再読する」という講演を行った。

一般的な読者にとって、魯迅の文章が難解なのは、一つは文章中に古文と白話が混ざっていることであり、もう一つは魯迅が反語を多用し、揶揄するのを好んだため、その趣旨を弁えない者の勘違いを生みやすいことである。今回の講義で王欽氏は『阿金』という一文の解読を入り口として、聴衆が幾重の障害を乗り越え、魯迅の精神世界を探ることができるように導いた。そして魯迅が阿金という、騒々しく、俗人であるが影響力のある女性に対して感じたことの読解を通じて、「共生」というテーマの含意の一つ、つまり他者を堪えるという問題を引き出した。

阿金は魯迅の生活に一時的に現れた女性として、あまり取柄がない人だとも言える。彼女の身分は外国人の女僕で、その騒がしさは魯迅の創作の邪魔をして嫌がられた。彼女は愛人が何人もいることを恥じていないが、ある愛人が災難に遭って自分に助けを求めに来た時には、臆病さから扉を閉めてしまった。王欽氏は、阿金と彼女の特徴的な騒々しさは、秩序にとらわれない力の象徴であると解釈する。それは決して奥深いものではなく、非常に浅薄であるとさえいえるだろう。そのため、伝統に反抗するという彼女の一面は賞賛に値しないだけでなく、その嫌がられる一面もまじめに非難するに値しない。しかし、そのような阿金は、確かに魯迅を含む近所の小さな世界を騒がせたのである。

王欽氏は、阿金をある種の女性像としてではなく、ある種の力として捉えることを提案した上で、この力を「感受力」(force of sensitivity)と呼んだ。この感受力は、いかなる偉大な精神的力でもなければ、そもそも何か著しい特徴をもったものでもない。それは例えば、私たちが読書に没頭しているときに隣の席でいつまでも喋り続ける人、あるいは眠れぬ夜に突然鳴る携帯電話のようなものである。それはありふれた他者の存在とそれに伴う偶然性、不確実性、無意味さの侵入である。

では、私たちはどのように他者に向かって自分を開き、他者の存在と和解すればよいのだろう。王欽氏は最後に魯迅の『これも生活……』の一節をヒントとして引用した。それは長い療養期間中の、ある眠れない夜の記述である。魯迅は部屋中の普段は気にも留めないような事物に対する自分の感知をはっきりと記録した。こうした軽視されてきた、あまりに平凡で見過ごされてきたものに対する感知によって、魯迅は世界と自分のつながり、そして行動力の回復を感じ直したのである。「枝葉を削った者は、決して花や実を得られない」と魯迅は言う。王欽氏はタイトルに「堪える」という言葉を使ったが、それは決してどうしようもない妥協ではなく、むしろ身をもって他者の存在の真実を感じ、さらに自分自身や生活に対するより完全な認識を得ることを意味すると筆者は思う。

 

報告:佟 欣妍(EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)「不眠」と礼とは普段気にしていないことを考えざるを得ないという点で似通っているが、「不眠」が突如現れる予期できないものであるのに対し、礼は日常生活に戻るためのもの、ノイズに対するセラピーと同じという先生方のディスカッションが印象に残りました。冒頭のカフェの例や「阿金」と魯迅との関係のように、必ずしも礼が通じるわけではなく、「不眠」との共生をせざるを得ないことがあるという点で、共生が必ずしも良いものではないという観点をあらためて深めることができました。
また、内容とは関係ないことですが、普段授業内で先生方同士のディスカッションを聞けることが滅多にないので、この授業はそういった意味でも貴重な機会だと感じています。(教養学部3年)

(2)1930年代の社会情勢の中で、自分の文学において政治との関係を排除することを図った魯迅の態度は、参議院選挙を前にした日本の政治状況を思うと、コメントすることが難しいけれど、複雑な気持ちになります。政治に対して力を行使することができる状態(選挙における投票行動など)においてはともかく、「内側」の均質化を図る政治が自分を圧するとき、文学はそこからの逃避の場を用意すべきだとも思います。自分の政治的立場はあまり露わにしたくはありませんが、自民党と音楽関連団体に関する時事ニュースに絡めて、音楽や文学など、表現の自由と無作法な表現に開かれたものがどうあるべきかに関する思考がまとまりません。(文科三類2年)