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2022.07.20

【報告】2022 Sセメスター 第13回学術フロンティア講義

2022年78日、今学期の学術フロンティア講義の最終回「よりよく生きるためのスペースを想像する」が行われた。今学期を通じてコーディネーターを務めた石井剛氏(東アジア藝文書院副院長)は、これまでの講義内容を学生のリアクションペーパーからの抜粋と共に振り返ることから最終回の講義を始めた。「我々」という共同性に回収しえないような、アンコントローラブルな他者との共生は本当に可能なのか。また視点を変えれば、「わたし」が存在することそれ自体が、他者との苦しい共生を他者に強いているのではないか。学生からは、こうした切実な問いがいくつも提起された。

これらの問いを引き受けた上で、石井氏は続いて「礼」という古い儒教的概念を取り上げ、その現代的意義を論じた。なまの感情を修養しつつ、その場の他者を遇するにふさわしい仕方を探り、自身の役割を演じてみること。こうした広義の礼の実践には、規範性の回復された空間をフィクショナルに演出し、たとえ一時的であれ現実を変容させるという力がある。しかし、定言命法的な道徳律とは異なり、礼は個別の他者とのつきあいにおいてくり返し発明される必要があり、その習得には常に失敗や衝突の可能性がつきまとう。そこで石井氏は、そうした礼を試行錯誤しつつ学ぶための自由な場を開くことこそ、大学の役割であると言う。絶えず問い直されざるを得ないという、礼に本質的な不確かさに耐え、仮初めの強力な規範的言説によってかき消してしまうことなくその不確かさを維持することに、大学の重要な意義があるのである。

 

石井氏が以上のように大胆に再定義する「大学」とは、文字通りの制度や施設としての大学には必ずしも限定されないものであるように思われる。むしろ筆者としては、礼を育む場としての「大学」とはそれ自体いかなる礼の名なのだろうか、と問うてみたい。石井氏の議論は、「祖先の霊を祭るには、霊がそこにいるかのように祭る」(『論語』八佾)と説かれるような、礼のフィクション的性格を重視するマイケル・ピュエットの解釈から出発している。では、わたしたちは制度的な大学の外であっても、今いるまさにその場所が大学である「かのように」ふるまい、それによってある種の儀礼空間を開くことはできるだろうか。互いを学生、教師、共に学ぶ同僚たち(collegium)として遇すること、あるいはまた未知のものを「学問的」な仕方で遇することは、その制度的基盤を括弧に入れるとき、いかなる規範を伴う実践として現れるだろうか。またそうした実践は、果たして他者とのより良い共生を可能にするものたり得るだろうか。

 

なお、これらの問いの考察を通して「よりよく生きるためのスペースを想像する」ことは、狭義の大学に所属する者にとっては、翻って自身の大学での学び方の問い直しへと折り返されるものでもあるだろう。『論語』にならって言いかえれば、まさに「大学で学ぶには、そこが大学であるかのように学ぶ」と言うことができるのではないだろうか。

 

報告者:上田 有輝EAAリサーチ・アシスタント)

 

リアクション・ペーパーからの抜粋
(1)大学を他者に対するふさわしい反応の仕方を学ぶ場所とする定義に感動した。確かに、オンライン授業では、他者の「顔」に出会う機会が少ない。偶然に「顔」に出会い、礼を実践的に修養する場としての大学。
しかし、数か月実際のキャンパスに通ってみて、私はまだやはり大学をその礼を修養する場として生かし切れていない気がする。つまり、偶然性が足りないということだ。ストレッチャーに乗って移動していたという人のように、事実この大学は多様なのだろうが、ルーティン化してしまうと他者を見逃してしまう。
大学入学当初は、大学のなにもかもが深遠で、今の自分には十全に理解できない、しかし真に価値のあるものを秘めているように感じられた。その感覚は今でもあるが、やはり新鮮さは薄れてしまった。おそらく、大学に行くということが無意識な習慣になってしまったがために、大学に通う自分と言う役割を当然視し、日常的なものを見直すことができなくなっているのだろう。
今回でこの講義は終わりだが、残りのS1の授業、さらにはそれ以後も、大学というものに改めて無限の期待を抱き(そうやってこの大学に入学したのだから)、大学から徹底的に学びとりたい。自分のいる環境のすばらしさを改めて実感し、意識的に日々を充実させていきたいと感じた。
一連の講義はどれもとても面白かったです。ありがとうございました。(教養学部文科一類一年)

(2)これまでの講義を振り返りながら、新たな知識も得ることができ良かったです。共生とは何か、先生も仰っていましたが私も割とオプティミスティックな立場をとっていたのですが、受講中に安倍晋三の訃報を知り、一瞬でペシミストになってしまいました。今後も様々な出来事があると思いますが、礼(リチュアル)など小さなところから共生の可能性を探り続けたいと思います。(教養学部三年)